各国での演奏と受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:48 UTC 版)
「交響曲第5番 (ニールセン)」の記事における「各国での演奏と受容」の解説
デンマーク この交響曲が初演された直後の新聞の評は概してよかった。特に第1楽章が好評だった。アクセル・シェルルフ(デンマーク語版)は、アダージョの部分で「夢想が、行為についての夢想に道を譲るのを聞いた。カール・ニールセンはおそらくこれ以上に力強く、美しく、根本的に健康で純粋な音楽を書いたことはない。」と記した。 しかし、批評家たちは第2楽章に対しては、評価をためらっていた。アウグスト・フェルシング (August Felsing) は批評の中で「第2楽章は知的な芸術であり、語っているのは巨匠の声である。しかし、第1楽章で輝いていた芸術における永遠性は、第2楽章では崩れてしまっている。」と語っている。 音楽家たちの意見も分かれていた。長い間ニールセンを支持してきた友人のヴィクトー・ベンディクスは、初演の次の日にニールセンに手紙を書き、「この汚い塹壕の音楽、軽率なインチキ、大衆の顔への鉄拳は、安っぽい映画音楽にしかすぎない。無防備な一般大衆、凡庸な人々の集団は、目新しく心地よいものが好きなので、自分の鼻血のついた拳を愛情をもって舐めかねない」と書いている。 ドイツ 同年中にニールセンはヨーテボリのオーケストラでこの交響曲を再び演奏した。彼は1922年12月1日にベルリンでドイツ初演を指揮した。この時の新聞の評は様々であった。『ベルリン・ベルゼン・クーリエ新聞』(Berliner Börsen Courier) のオスカー・ビー(Oscar Bie)は、「2楽章から成る、自然のシーンと弦によるコラールを持つ交響曲第5番はマーラーの手法を思い出させたが、あまり根本的な印象とはいえない。望ましい洞察力と巧みな技術が必ずしも矛盾なく結びついているわけではない。」と述べている。 この交響曲はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの手により1927年7月1日、フランクフルトの国際現代音楽協会の世界音楽デーのフェスティバルにおいて再び演奏された。この時は、アダージョのテンポが遅すぎて観衆の受けはあまり良くなかった。彼は後に1927年10月27日にライプツィヒで正しいテンポで演奏している。 スウェーデン イェオリ・シュネーヴォイクトの指揮による1924年1月20日のスウェーデンでの演奏は、完全なスキャンダルを引き起こした。『ベルリンゲステ・ティデンテ』(Berlingske Tidende) 紙によれば、観衆の中にはこの作品の新しさを受け入れられなかった者がいたのである。 「途中、ドラムが鳴り響き"騒音的な"効果がもたらされる第1楽章において、完全なパニックが起きた。観衆の四分の一がありありと当惑と怒りをあらわにして出口に殺到したのであった。残ったものたちはシッシッという声をたててこの作品をやじった。それに対して指揮者のイェオリ・シュネーヴォイクトはオーケストラに極端な音量で演奏させることで対抗した。このドタバタの全てがニールセンが思いもしなかった方法でこの交響曲のユーモアに満ちたドタバタ芝居的な面をはっきり示したのである。彼の当惑と野蛮さと争いに満ちた現代についての描写と、抑えることのできない苦しみと無知の叫びと、そしてその全ての裏にあるドラムの粗野なリズムは聴衆が逃げ出すとき、ほとんど悪魔のようなユーモアを与えていた。」 しかし、1928年12月5日のニールセン指揮のストックホルムでのコンサートの批評を見ると、スウェーデン人たちがこの交響曲を認めたことが分かる。 フランス ニールセンの義理の息子にあたるテルマニーが1926年10月21日のパリのサル・ガヴォーでのフランス初演を行った。 イギリス この交響曲のイギリス初演は作曲から29年が経った1950年、エディンバラ国際フェスティバルにてエリク・トゥクセンが指揮をし、成功させた。
※この「各国での演奏と受容」の解説は、「交響曲第5番 (ニールセン)」の解説の一部です。
「各国での演奏と受容」を含む「交響曲第5番 (ニールセン)」の記事については、「交響曲第5番 (ニールセン)」の概要を参照ください。
- 各国での演奏と受容のページへのリンク