史上唯一の完全制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 13:53 UTC 版)
「エリック・ハイデン」の記事における「史上唯一の完全制覇」の解説
1980年の冬季オリンピック・レークプラシッド大会は、ハイデンの全種目制覇に世界の注目が集まった。地元アメリカの選手であり、21歳という若さにもかかわらずスピードスケートの頂点に君臨していたこと、また種目間にインターバルが十分取れるという日程もあり、ハイデン本人も完全制覇を意識していた。しかし実際には強力なライバルもおり、容易ではなかった。 最初の種目は500mだが、これが特に不安視されていた。同走のソ連のエフゲニー・クリコフは当時の世界記録保持者、しかもハイデンは不利なアウトスタートだった。さらに悪いことに、ハイデンは最初のスタートでフライングを犯し、やり直しとなったスタートでクリコフの先行を許してしまう。クリコフのリードでレースは進み、ハイデンの夢は早くも打ち砕かれてしまうのかと思われた時、クリコフがカーブで大きくバランスを崩し、そのお陰でハイデンは逆転し金メダルを獲得することができた。クリコフは猛烈な追い上げで銀メダルとなったが、ミスがなければまずハイデンを破っていたと思われる。 続く5000mはハイデン自身、「体力的にもっともきつい」と言っていたレースである。結果は僅差の争いを1秒差で制し優勝、「ラッキーだったよ」と語った。 インターバルを置いた1000mは五種目中唯一、問題なく制覇し三冠を達成した。 しかし続く1500mでは、快調に滑り余裕をもって優勝かと思われた矢先の600m付近で大きくバランスを崩し、転倒しかけてしまう。それでも強靭な太ももとボディバランスで持ち直し、4つ目の金メダルを獲得。安堵感からかインタビューでは感想を求められての第一声で「ワーオ!」とおどけて見せている。 そしてインターバルを置いてついに最終種目10000mに臨むことになるが、ここに一番の難関が待ち構えていた。前日に、ハイデンはアイスホッケーのアメリカ対ソ連の試合を観戦していた。学生中心で臨んだアメリカが、最強と言われていたソ連チームを破った試合に熱狂し、興奮のあまり夜なかなか眠れなかったという。おかげでハイデンは翌日スケート会場に遅れて到着し、コーチや関係者をやきもきさせた。 そんな中臨んだ最終種目10000mでは、またしても当時の世界記録保持者と同じ組で滑ることになる。その相手、ソ連のビクター・ラスキンは個人の記録以上に、スケート大国の威信に懸けてハイデンの全種目制覇を阻まんと燃えていた。スタート直後から飛ばし、ハイデンのペースを狂わせる作戦に出たラスキンにハイデンは大きく取り残され、精神的にかなりのプレッシャーを課されることとなった。それでもコーチは構わずペースを守り続けるよう冷静に指示を出す。結局5000m付近でラスキンは失速し、逆にハイデンの独走となった。 しかし最終種目だけにこれまでの疲労の蓄積は並大抵ではなくしかも寝不足でもあり、プレッシャーをかけられ続けていたハイデンの方としても、周回を重ねるごとに体力は限界に近づき、もはや腰を曲げている状態だけでも耐えられなくなってきたという。最後は正に残りの気力を振り絞ってのフィニッシュとなった。その結果は、世界記録を大幅に更新しての金メダル獲得。空前絶後の完全制覇を達成し、当時アメリカと冷戦状態にあったソ連の新聞も「記録に残る勝利」としてハイデンの栄誉をたたえた。
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