古典的自由主義とリバタリアニズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:33 UTC 版)
「古典的自由主義」の記事における「古典的自由主義とリバタリアニズム」の解説
ピサ大学政治学部の教授ライモンド・クベッドゥ(Raimondo Cubeddu)は、「リバタリアニズムと古典的自由主義を区別するのは難しい場合が多い。最小国家主義を信奉するいわゆるリバタリアン――ロックやノージックに始まり、国家は財産権を実効的に保障するために必要なのだと考える人々――にとって、これら二つの名称はほとんど互換的に用いられている。」と述べる。リバタリアンは、自分たちと古典的自由主義は多くの哲学的・政治的・経済学的姿勢(例えば自由放任的な政府、自由な市場、個人の自由)において共通していると考えている。しかしながら、これは単なる「表面的な」類似にすぎないという反論もある。 リバタリアニズムと自由主義の類似は、表面的なものである。究極のところ、リバタリアンは自由主義にとって本質的な制度を否定するものである。リバタリアニズムと似ているのは、自由主義が歴史的に自分たちの敵とみなしていた価値観、すなわち封建主義の基礎となっている私的政治権力の理論の方だというのが、正しい理解である。封建主義と同様、リバタリアニズムは、正統な政治的権力は私的契約のネットワークの中に置かれると考える。政治的権力とは全体の利益のために公平に行使されるべき公的権力であるという、自由主義にとって本質的な理念を、リバタリアニズムは否定する。 同様に古典的自由主義とリバタリアニズムの違いを強調する論者は、古典的自由主義の代表的思想家たちはリバタリアニズムから遠く離れた所にいたと指摘する。 アダム・スミスは、市場を重視しながらも数多くの例外を認めていた、穏健な自由企業論者と見るべきである。彼は、至るところに政府の存在を許容していた。――ジート・ヒアー 19世紀半ばのエイブラハム・リンカーン大統領も、国家による鉄道の供給・規制を認めるホイッグ党的な経済自由主義に則った政策をとった。1862年の太平洋鉄道法によって、大陸横断鉄道の建設が行われた。 ただし、こうした指摘は、「リバタリアニズム」を、絶対的な自由放任主義であると捉えていると思われる。確かに一部のリバタリアンはすべての政府による介入に反対しているけれども、一定の政府による介入や、道路や公益企業の提供を例外として認めるリバタリアンもいる。したがって、一部の古典的自由主義者が絶対的な自由放任主義に対する例外を設けていることを理由に、リバタリアニズムは古典的自由主義とは異なるものであるとする主張は、ある一つのタイプのリバタリアニズムを前提としたものにすぎないと思われる[要出典]。 また、自由主義的制度に備わるチェック・アンド・バランスの仕組みが、多くのリバタリアンの支持する完全な経済的規制の撤廃と衝突するとして、リバタリアニズムと自由主義は根本的に折り合わないものであるという議論もある。しかし、古典的自由主義、リバタリアニズム双方の内部に多数の党派があるため、両者の異同についての議論は難しい。例えば、そもそも、最小国家主義のリバタリアンも、必ずしも完全な経済的規制の撤廃を主張しているわけではなく、少数の限られた公共財については税金をもとに供給することを支持している場合が多い。 オックスフォード大学教授アラン・ライアン(Alan Ryan)は、次のように述べる。 現代のリバタリアンが言う、自分たちは古典的自由主義者である〔との主張は〕全面的に正しいわけではない。ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に代表される、売春、薬物使用、非オーソドックスな性行為など「被害者なき犯罪」を非犯罪化すべきだとするリバタリアンの思想の系譜が少なくとも一つある。そういった主張は、ジョン・ロックやアダム・スミスにはなかったものである。
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