原判決の破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 23:51 UTC 版)
「ブリッジウォーター・フォー」の記事における「原判決の破棄」の解説
1997年2月、数多く繰り返された裁判闘争の末、控訴院は、証拠の一部がモロイの自供を促す目的で警察によって捏造されており、裁判が不公正であったと認め、遂に有罪判決が覆された。しかし、控訴院の裁判官たちは、殺害の現場にいたとするヴィンセント・ヒッキーの自供については、「理性ある陪審団が有罪判決を下すと推認できるだけの証拠があるものと判断される」という意見も付した。 しかし、この判決を受け、検察庁 (Crown Prosecution Service) はヴィンセント・ヒッキーについて、公益を考慮して謀殺罪での再審を求めず、重大な武装強盗の罪で追及することもしないことを決定した。 ヴィンセント・ヒッキーは、「有罪判決は破棄され、放免されたのだから、自分に関してはこれで終わりだ。」と述べた 1997年より前にも、控訴は取り組まれていたが、1989年3月の控訴請求は却下されていた。 メディアは、別の殺人事件で謀殺罪で有罪となっていた1940年生まれのヒューバート・スペンサー (Hubert Spencer) が真犯人ではないかと、長年にわたって報道してきた。救急車の運転手であり、スタウアブリッジのワーズリー (Wordsley) 地区でブリッジウォーター少年の近所に住んでいたスペンサーは、殺人事件の直後にも警察の捜査対象となっていたが、その理由のひとつは、事件があった日の午後に現場の農場に停まっていたのを目撃されたのと同型の、青いボクスホール・ヴィヴァ (Vauxhall Viva) をふだん運転していたためであった。目撃証言では、その車を運転していたのは制服を着た男だったとされていた。しかし、4人が容疑者として逮捕された後は、警察はスペンサーを捜査対象から外した。その直後、当時70歳だったヒューバート・ウィルクスが、近くのハロウェイ農場 (Holloway Farm) で射殺された。被害者は、ブリッジウォーター少年と同じように、ソファに座っているところを射殺されていた。1980年にスペンサーは無期刑となったが、15年間刑に服した後、1995年に恩赦で出所した。 ブリッジウォーター・フォーの4人の自由放免を求める運動を主導したのは、マイケル・ヒッキーの母アン・ウェラン (Ann Whelan) と、キャンペーン・ジャーナリストのポール・フット (Paul Foot) であった。スタッフォードシャー州の警察に所属する4人の警察官を、証拠の捏造で告発する訴訟も進められたが、1998年12月にこの件は取り下げられた。 控訴院は、マイケル・ヒッキーとヴィンセント・ヒッキーについて逸失所得補償額の4分の1を収容中に得た食住の費用として相殺すべきである、とした内務省任命の査定者の主張に合意した判断を下し、獄中の収容者のために活動している人々から「病的 (sick)」と非難された。これが前例となり、内務省は現在もこの原則に従っている。2007年には、獄中死したパトリック・モロイを除いたブリッジウォーター・スリー (Bridgewater Three) の3人によって、この通称「ベッド・アンド・ブレックファスト代」の不当を訴える裁判が起こされたが、当時の貴族院の常任上訴貴族(法官貴族)はこの原則を支持する判断を下した。 ジェームズ・ロビンソンは、2007年8月30日に73歳で肺がんにより亡くなった。
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