協同主義、中道主義と三木
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
「三木武夫」の記事における「協同主義、中道主義と三木」の解説
戦前から50年以上に及ぶ三木の政治生活の中で、三木の政治信条の一つとして協同主義(コーポラティズム)が挙げられることが多い。三木の協同主義との出会いははっきりとしない点が多いが、三木の舅である森矗昶と繋がりがあった千石興太郎が大きく係わっていると考えられる。戦前、森コンツェルンは合成肥料製造に乗り出していたが、肥料の販路として千石率いる産業組合が名乗りを上げた。硫安などを製造する窒素工業は、当時としては高度の技術と設備を必要としたため、大資本でなければ手が出せず、製品も三井物産や三菱商事などといった大商社系が独占的に扱っており、新興の森コンツェルンが進出するのは容易ではなかった。しかし森矗昶は、産業組合との連携によって大資本独占に風穴を開けることに成功した。また三木は、徳島県の農村地帯選出の代議士であり、衆議院選挙初出馬時から産業組合の振興を政見に掲げていた。 三木は戦後まもなく発足した日本協同党への参加を、千石興太郎から勧められるが参加しなかった。これは近衛新体制に加担し、東條内閣時には率先して戦争遂行に加担したメンバーが多く含まれる日本協同党への参加を見送ったものと考えられる。三木は1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙後に、協同民主党、国民協同党と、協同主義を標榜した政党に所属し、国民協同党では書記長、そして党首である中央委員長を務めた。国民協同党は民主党の野党派と合同して国民民主党に、そして改進党、日本民主党を経て自由民主党となるが、日本民主党に至ると綱領から協同主義は全く消え去った。政治学者の竹中佳彦は、三木にとって協同主義は中道主義とほぼ同義であり、自己の政治影響力の拡大や政権獲得のための手段として協同主義を利用した側面が強いとする。また小西徳應によれば、三木の協同主義は便宜上のもので、ほとんど評価しない人が多いと指摘している。 その一方で、中曾根康弘、そして三木の妻である睦子らは、三木の信条に協同主義があったとしている。睦子は三木の協同主義は農村部ばかりではなく、都市部の商工業者にも必要であると考えており、例えば戦後の露天商が集まって組合を結成し、それが発展した秋葉原電気街が三木の考えていた協同主義の成果であるとする。 協同主義は政党の結党哲学としての力を失い、戦後まもなく生まれた協同主義政党は消滅した。しかし協同主義から後の市民運動へ繋がっていく流れがあったとの指摘もあり、三木にとっても戦後の混乱期の協同主義活動を通じ、全国各地に地方自治体の首長、地方議員などを中心とした多くの人脈を形成することに繋がった。また戦前、アメリカ、ヨーロッパ各国への遊学、そしてアメリカ留学の中で三木が会得したアメリカやイギリスなどの自由主義諸国への共感と左右の全体主義に対する警戒心に加えて、資本主義的な搾取と左翼的な階級主義の双方を否定し、資本主義の枠内で社会的公正を求めるという、協同主義の中から見いだした中道主義を三木は生涯変わらず唱え続けることになる。
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