労働司祭らとの活動
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「ミシェル・ペロー」の記事における「労働司祭らとの活動」の解説
ミシェルは自立を促す家庭環境とは対照的な良妻賢母教育に反感を抱き、これが女性学に関心を持つきっかけになった。学習内容にも満足できず、最初はトルストイ、ツルゲーネフ、ジャック・ロンドン、ドス・パソス、ヘミングウェイらの作品を読みふけったが、文学にも飽き足らず、やがてベルクソン (1859-1941) やシモーヌ・ヴェイユ (1909-1943) などの哲学に関心を寄せるようになった。こうした関心は「他人に対して寛大で、他人の役に立つ人間になること」および「罪の意識を育むこと」という、ボシュエ学院で教えられたキリスト教道徳にも関わるものであった。ボシュエ学院はフランス海外県・海外領土、アフリカおよび極東における布教活動と労働者階級への支援・布教活動という主に2つの活動に関わっていたが、ミシェル・ペローはとりわけ「搾取され、見捨てられ、無神論者になり、神を失う」労働者階級の現状を描いたアンリ・ゴダン(フランス語版)神父の著書『布教国フランス』(イヴァン・ダニエル神父との共著; 1943年出版) に影響を受け、労働司祭(フランス語版)(労働者の世界にキリストの福音を伝えることを目的とし、みずから労働者となって生活を共にしているカトリック教会の司祭たち)の活動に関心を持つようになった。実際、司祭だけでなくシモーヌ・ヴェイユのような女性たちもこうした活動に参加していた。シモーヌ・ヴェイユが「教職をなげうち、未熟練の女工として工場に飛び込んだのは、市井の人びとの疎外状況を身をもって知るためであった」。ゴダン神父は青年キリスト者労働連盟の司祭でもあり、キリスト教学生青年会(フランス語版)(JEC) の会員であったペローは青年キリスト者労働連盟を通して若い労働者らに出会う機会を得た。 なお、数年後にカーンの女子高等学校で教鞭を執るようになってからも、フランス宣教会(フランス語版)の司祭ら、とりわけ主に労働者が住むカーン郊外のル・プラトー(コロンベル、ジベルヴィル、モンドヴィルの3つのコミューンに跨る地域)の司祭らの協力を得て、同じ歴史学者の夫ジャン=クロード・ペロー(フランス語版)、哲学者・民族学者のジャン・キュイズニエ(フランス語版)と共にノルマンディー製鉄所の労働者について調査を行っている。これは宗教社会学者ガブリエル・ル・ブラ(フランス語版)やマルクス主義社会学者アンリ・ルフェーヴルらの手法に倣った研究であった。また、研究活動と並行して、ジャック・シャタニエが結成した急進派キリスト教団体の活動に参加し、機関誌『ラ・ケンゼーヌ』を発行していたが、1954年に教皇庁が「労働司祭」の停止を発令。『ラ・ケンゼーヌ』は発禁処分となり、以後、ペローはカトリック教会からも信仰からも離れることになった。
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