加太家とは? わかりやすく解説

加太家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 14:38 UTC 版)

加太邦憲」の記事における「加太家」の解説

平盛国関氏庶流で、鈴鹿郡加太村亀山市)を本拠とした鹿伏兔氏の一族で、近世初期より久松松平家仕え転封従い伊予松山藩陸奥白河藩、そして伊勢桑名藩移った明暦3年1657年)ごろに江戸出た一族加太八兵衛は「伊勢八」の屋号商人となる。幕末豪商七代目八兵衛高名であるが、続く、明治期八代目八兵衛で「伊勢八」は店をつぶした。この一族の子孫に、作家加太こうじドイツ文学者山下肇がいる。山下の弟には、ロシア文学者泉三太郎や、映画館経営者の三浦大四郎らもいる。 祖父加太佐五兵衛孝厳(たかたけ)は桑名藩老臣吉村宣春四男。号は遊斎。祖父万延元年1860年2月26日72歳祖母2月29日71歳で共に感冒死去し長寿院葬られた。 父加太喜内孝喜は初名孝顕、号は羽扇白河生まれ禁門の変天狗党の乱鎮圧鳥羽・伏見の戦い参加し江戸逃れた後、明治8年1875年1月22日桑名死去した。母、鶴子文政8年1825年) - 明治40年1907年2月28日)は藩士長尾元勲(もとたか)または元資五女。 長兄長妹次妹長弟早世し、次兄久米嘉永5年1852年天然痘により6歳死去した。弟・頼茂は明治4年1871年叔父青木左衛門頼救養子となり、陸軍歩兵少佐として西南戦争日清戦争日露戦争参加した。妹・勝は明治10年1877年5月榎本美に嫁ぐ。妹・常は明治19年1886年4月13日鈴木長利嫁ぎ明治26年1893年12月7日死去明治6年1873年7月9日、父・孝喜の同僚鵜飼右衛門貴良次女歌子を娶り、2女3男を儲けた長男重邦は明治12年1879年8月11日生まれ明治40年1907年7月法科大学卒、住友銀行勤務次男良邦は明治18年1885年5月12日生まれるも、19日死去三男・安邦は明治24年1891年3月22日生まれ大正3年1914年7月京都法科大学卒、三井銀行勤務長女・徳は明治10年1877年6月2日生まれ明治29年1896年6月判事法学生前成美嫁ぐ次女直子明治15年1882年6月18日生まれ明治35年1902年11月2日逓信省技師堤正義嫁ぐ。 孫に加太光邦曾孫法政大学助教授加太宏邦。

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