加太家
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平盛国流関氏庶流で、鈴鹿郡加太村(亀山市)を本拠とした鹿伏兔氏の一族で、近世初期より久松松平家に仕え、転封に従い伊予松山藩、陸奥白河藩、そして伊勢桑名藩に移った。 明暦3年(1657年)ごろに江戸に出た、一族の加太八兵衛は「伊勢八」の屋号の商人となる。幕末の豪商の七代目八兵衛が高名であるが、続く、明治期の八代目八兵衛で「伊勢八」は店をつぶした。この一族の子孫に、作家の加太こうじ、ドイツ文学者山下肇がいる。山下の弟には、ロシア文学者泉三太郎や、映画館経営者の三浦大四郎らもいる。 祖父加太佐五兵衛孝厳(たかたけ)は桑名藩老臣吉村宣春四男。号は遊斎。祖父は万延元年(1860年)2月26日72歳、祖母は2月29日71歳で共に感冒で死去し、長寿院に葬られた。 父加太喜内孝喜は初名孝顕、号は羽扇。白河に生まれ、禁門の変、天狗党の乱鎮圧、鳥羽・伏見の戦いに参加し、江戸に逃れた後、明治8年(1875年)1月22日桑名で死去した。母、鶴子(文政8年(1825年) - 明治40年(1907年)2月28日)は藩士長尾元勲(もとたか)または元資五女。 長兄、長妹、次妹、長弟は早世し、次兄・久米も嘉永5年(1852年)天然痘により6歳で死去した。弟・頼茂は明治4年(1871年)叔父青木市左衛門頼救養子となり、陸軍歩兵少佐として西南戦争、日清戦争、日露戦争に参加した。妹・勝は明治10年(1877年)5月榎本師美に嫁ぐ。妹・常は明治19年(1886年)4月13日鈴木長利に嫁ぎ、明治26年(1893年)12月7日死去。 明治6年(1873年)7月9日、父・孝喜の同僚、鵜飼兵右衛門貴良次女・歌子を娶り、2女3男を儲けた。 長男重邦は明治12年(1879年)8月11日に生まれ、明治40年(1907年)7月法科大学卒、住友銀行勤務。次男良邦は明治18年(1885年)5月12日に生まれるも、19日死去。三男・安邦は明治24年(1891年)3月22日に生まれ、大正3年(1914年)7月京都法科大学卒、三井銀行勤務。 長女・徳は明治10年(1877年)6月2日に生まれ、明治29年(1896年)6月判事法学生前沢成美に嫁ぐ。次女・直子は明治15年(1882年)6月18日に生まれ、明治35年(1902年)11月2日逓信省技師・堤正義に嫁ぐ。 孫に加太光邦、曾孫に法政大学助教授加太宏邦。
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