劇場、闘技場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
劇場と円形闘技場は、正方形に区画された都市に配置しにくい施設であるが、一般に、ローマ都市遺跡の中では最も保存状態が良い建築物である。劇場は、ギリシア発祥の建築であることが明確であるが、ギリシア劇場はそのまま受け入れたわけではなく、ローマ人によって大きく修正された。どちらの劇場も、観客席の前にオルケストラが設けられているが、古代ギリシアでは、合唱隊が動き回るためにオルケストラは円形に作られた。というよりも、まず円形のオルケストラがあり、これを客席が囲んでいたと表現できる。客席の反対側に舞台背景となるスケネがあり、俳優が演技を行う非常に高い(3〜4m)高壇であるプロスケニオンが設置された。これに対し、古代ローマでは戯曲に合唱隊は必要とされなくなったので、オルケストラは小さく、大抵は半円形である。役者が演じるプルピトゥム(舞台)は、ギリシアのプロスケニオンよりも低く(1m以下)つくられている。ローマ劇場で特に目を引くのは、ギリシア劇場のスケネとおなじ役割を担うフロンス・スケナエである。フロンス・スケナエはギリシア劇場のスケネよりも大規模で、通常は3層で構成され、中央・両側の3つの扉を備え、重要人物は中央から、さして重要でない役は両側の扉から登場した。恐らく小アジアで考案され、声優の声を観客席に届ける役割を果たしたフロンス・スケナエは、ローマにおいて洗練され、やがて西方に広がっていった。ギリシア劇場は擂鉢状の土地にしか建設されなかったが、古代ローマでは平地でも劇場が作られ、大規模なものは露天であったが、オデイオンやアウディトリウムと呼ばれる小規模なものには屋根が架けられた。 アンフィテアトルム(円形闘技場)は、剣闘士や猛獣との格闘、調教された動物の見せ物などのために建設された施設で、現在、世界で400弱が知られている。多くは円形だが、そうでないものもある。また、劇場を改装したものや、劇場と兼用されたものもあった。最も古い闘技場は、紀元前80年頃に建設されたポンペイのものである。競技場(キルクス)とおなじように、漏斗状の地形を利用して建設されているが、競技場とは別の施設としてカンパーニアで生まれたものと考えられている。ローマ市では、剣闘士の競技はフォルム・ロマヌムで行われるのが伝統であり、帝政初期になっても恒常的な建築として闘技場を構築するという概念はなかった。しかし、ネマウススやアレラテ(現アルル)、アウグストドゥヌム(現オータン)など、他の都市においてこの建築物が成功をおさめたため、剣闘士競技が一般的になって300年が過ぎた後、ウェスパシアヌスによって、ようやく首都にふさわしい闘技場が起工された。45,000人から55,000人を収容できたとされるアンフィテアトルム・フラウィウム(現コロッセオ)は、マルケッルス劇場に連なるやや古くさいファサードを持つ建築物であるが、ローマ世界最大の闘技場であり、その施工には帝国の最も高い技術が集約されている。最下層部は5つの回廊に囲まれ、その中央部(アレーナの下部構造)には、猛獣や剣士が通る通路や傾斜路、エレベーター、管理人室などが構築されている。。 キルクス(競技場)は、現在まで100程度が知られているが、客席は簡素な建築であったため、現在まで姿を留めているものは少ない。外形が残るものは、レプティス・マグナとアッピア街道沿いに残るマクセンティウスの競技場くらいである。細長いトラックを持ち、「エウリプス」あるいは「スピナ」と呼ばれる中央分離帯を持つ。短辺の一方は出走ゲートになっており、ラッパの合図とともにゲートが開き、各戦車が一斉に出走した。大きさはまちまちだが、小さなもので長さ200m程度。テッサロニキやシルミウム、アウグスタ・メディオラヌム(現ミラノ)などでは400mから500m程度である。ローマのキルクス・マクシムスは最も大きく、長さ600m、250,000人を収容することができた。アンフィテアトルムと違って、戦車競技は市民の娯楽として長く開催され続け、コンスタンティノポリスのキルクスは10世紀まで使われていた。
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