副助祭として(第二ヴァチカン公会議以前の制度で行われていた品級)
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「ニコラウス・コペルニクス」の記事における「副助祭として(第二ヴァチカン公会議以前の制度で行われていた品級)」の解説
1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な副助祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる。1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウル(en:Paul of Middelburg)がコペルニクスに意見を求めている。 1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。 しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランド国王ジグムント1世に臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。 ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年にマルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。
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