副党首へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:25 UTC 版)
「ジョン・プレスコット」の記事における「副党首へ」の解説
1992年の副党首選挙に敗れ、1994年の党首選挙でも、トニー・ブレアの優勢が伝えられていたが、党首選挙が必要であるとの判断と、副党首選への布石としてこれに出馬、次点におさまる。案の定、続く副党首選挙でトニー・ブレア党首のもと副党首に選出された。 ブレアは、プレスコットが党内左派で、「完全雇用」やEU統一通貨導入反対を口にするなど、自分とは政策的に対立していることを承知しながらも、プレスコットが党首に対しては従順であることを見抜いていた。また、後に「デイリー・ミラー」紙の政治記者だったアリスター・キャンベルが報道官として採用され、ブレアとプレスコットの間の伝令役・潤滑油になったことも、両者の関係が円滑にすすんだ要因となった。 新党首ブレアが進めた、党綱領第4条(国有化条項)の改定にあたり、ブレアはプレスコットを改定反対派に対する抑えとして活用し、これを成功させた。この第4条改定に協力して以降、プレスコットはブレアにとって最も必要な実力者になっていった。プレスコット自身も、党内左派を抑え、副党首として忠実にブレアを守った。 1997年の総選挙で労働党が勝利し、ブレア政権が発足すると、環境・運輸・地域担当の副首相に任命された。同年、地球温暖化防止会議に出席し、京都議定書の取りまとめにも活躍した。
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