初期:1968-1970
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「レッド・ツェッペリン」の記事における「初期:1968-1970」の解説
バンドは1968年10月4日に最初のイギリスツアーを開始したが、その時点ではニュー・ヤードバーズとして告知が行われている。彼らは10月25日にバタシーのサリー大学でレッド・ツェッペリンとして最初のショーを行った。後にバンドのツアーにおける重要人物となるツアーマネージャーのリチャード・コールは、年末に最初の北米ツアーを企画した。彼らのデビューアルバムである『レッド・ツェッペリン I』は北米ツアー中の1969年1月12日にリリースされ、ビルボードのチャートで最高10位を記録した。イギリスでは3月31日に最高6位を記録した。スティーヴ・アールワインによると、アルバムは印象的なギターリフ、重苦しいリズム、サイケデリック・ブルース、グルーヴィーでブルージーなシャッフル、イギリスのフォークミュージックのヒントが、「ハードロックとヘヴィメタルの進化における重要なターニングポイント」となったとする。 レッド・ツェッペリンは活動一年目にアメリカとイギリスで4度のコンサートツアーを行い、セカンドアルバム『レッド・ツェッペリン II』もリリースした。このアルバムは北米ツアー中にさまざまなスタジオで録音され、ファーストアルバムよりもさらに大きな商業的成功を収め、アメリカとイギリスでチャート1位に到達した。このアルバムはデビュー作で確立されたブルース・ロックの音楽スタイルをさらに発展させ、「重くて硬く、荒々しく直接的」で、非常に影響力があり、多くに模倣されるサウンドを作成した。スティーヴ・ワクスマンは、『レッド・ツェッペリンII』が「ヘヴィメタルの音楽的出発点」であると示唆している。 彼らは自らのアルバムを不可分で一体な作品と見なし、シングルとしてリリースするために既存のトラックを再編集することを嫌っていた。グラントは、ロックミュージックがラジオやテレビで放送されることがほとんどなかったイギリスにおいて、積極的なプロアルバムのスタンスを維持した。しかし、特にアメリカでは、バンドの同意なしに一部の曲がシングルとしてリリースされた。1969年、セカンドアルバムの収録曲「胸いっぱいの愛を」の編集版がシングルとしてアメリカでリリースされた。この曲は1970年1月にビルボードのチャートで4位に達し、100万枚以上を売り上げ、バンドの人気を確固たるものにした。彼らはまた、ファンがライブコンサートでその姿を見たり演奏を聞きたがったりしていることを理由に、テレビへの出演をますます避けるようになった。 セカンドアルバムのリリースに続いて、レッド・ツェッペリンはさらにいくつかのアメリカツアーを行った。彼らは最初はクラブやボールルームで演奏し、その後人気が高まるにつれてより大きなホールで演奏した。初期のレッド・ツェッペリンのコンサート(英語版)では、レパートリーのライブバージョンを拡張して即興で演奏したものもあり、4時間以上続いた。これらのライブの多くは録音され、海賊盤として出回っている。バンドのステージ外における乱痴気騒ぎの悪評が築かれたのは、この集中的なコンサートツアーの期間だった。 1970年、ペイジとプラントはウェールズの人里離れたコテージ、ブロン・イ・アーに籠もり、サードアルバム『レッド・ツェッペリン III』の制作を開始した。アルバムはフォークやケルト音楽の影響を強く受け、バンドの多様性を示す、よりアコースティックなスタイルが生まれた。アルバムの豊かなアコースティックサウンドに対して人々は当初複雑な反応を示した。批評家やファンは前二作のエレクトリックなアレンジからの転換に驚き、バンドのマスコミに対する敵意をさらに煽った。『レッド・ツェッペリン III』はアメリカとイギリスのチャートで1位となったが、滞在期間はファーストアルバムから5作目までの中で最短だった。アルバムのオープニングトラック「移民の歌」は、バンドの意向に反して1970年11月にアメリカでシングルとしてリリースされ、ビルボードチャートのトップ20に到達した。
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