内戦、自由国成立と国土分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 16:12 UTC 版)
「アイルランド共和軍」の記事における「内戦、自由国成立と国土分裂」の解説
1916年にはダブリンでイースター蜂起を起こすが、兵力・弾薬不足と市民側の支援を得られなかったことが原因で、わずか6日間で鎮圧された。イギリス総督府は、蜂起直後に蜂起の首謀者であるJIRAの幹部16名を即決の軍事裁判で処刑し、このことが蜂起に対しアイルランドの市民の同情的態度を呼んだ(ただし首謀者たちは武装したまま逮捕され、当人も容疑を認めていたこと、事実関係が明白だったこと、敵国のドイツと連絡していたこと、彼らの反乱が多数のダブリン市民を巻き添えにしたことを考えれば、一方的な処刑だったとは言い切れない面がある)。蜂起に消極的だった穏健派のシン・フェイン党は、蜂起が市民の同情を得たところで上手く立ち回って人気を集め、1918年の総選挙で議席を伸ばして躍進、1919年1月にはドイル・エアラン(アイルランド国民議会)の設立に着手し、マイケル・コリンズを軍事担当に任命する。臨時政府の国防大臣カサール・ブルッハーはアイルランド義勇軍を「アイルランド共和軍」と改めた。一説によると、軍事部門に対するコリンズの影響力増大により、リーダーの私兵と化すことを恐れたシン・フェイン党幹部らが、共和国の軍隊としての自覚を促すために改称したともいう。その後、コリンズの指導の下での対英闘争の結果、1921年に臨時政府首班のエイモン・デ・ヴァレラとイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージとの首脳会談が実現し、和平が成立する(英愛条約)。 この和平の結果、イギリス連邦内で英国王を国家元首に頂く自治領「アイルランド自由国」が成立するが、あくまで完全に独立した共和国の設立を目指すデ・ヴァレラらは条約締結に反対し、アーサー・グリフィスやコリンズら条約派と対立した。その結果IRAは、自由国軍(英語版)に編入されるグループとデ・ヴァレラ派に分裂した。そして、条約の賛否を問う国民投票でデ・ヴァレラら反条約派が敗れると、IRAは武装蜂起し、内戦がダブリンを中心に広がり、コリンズも何者かによって殺害される。そして1921年に、内戦を格好の口実としてアルスター議会は自由国からの離脱を宣言、アイルランドは南北に分かれることとなった。 内戦後の政府による弾圧のため、IRAは衰退した。第二次世界大戦においてアイルランドは公式には中立の立場を取ったが、IRAはこの時期にナチスの援助を求めて代表者がドイツに渡航するなどしており、北アイルランドに対する攻撃について対独協力していたとの指摘もある。 ドイツと同じ枢軸国である日本がシンガポールを陥落させると(シンガポールの戦い)、IRA幹部で後に上院議長となったトム・マリンズらがダブリン駐在日本領事を囲んで祝賀会を開いた。このほかアイルランド政府も大戦中、日本の在欧外交拠点に対して送金に便宜を図るなど支援した。
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