内川新田についてとは? わかりやすく解説

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内川新田について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 14:57 UTC 版)

砂村新左衛門」の記事における「内川新田について」の解説

内川新田江戸時代初期砂村新左衛門主導の下、砂村新三郎が(後に新三郎家の番頭務め久兵衛と共に開発した三国本拠置いていた寛永年間の頃から開発あるいは開発準備進めていた可能性がある。寛永年間には新左衛門内川入海海岸八幡久里浜村)に廃寺であった正業寺中興している。中興開山芝増上寺21世上人業誉還無の名を借りていて、福井藩松平忠昌から厚い信頼得ていたことが窺われる本格的な開発万治年間のことで最初検地万治3年1660年)高は360石余で、このとき一応の完成見たようである。その年、上福島の上天神現在の福島天満宮)から菅原道真公分霊勧請し天神社現在の久里浜天神社)を作った内川新田当時呼称八幡原新畠と内川入海新田併せ新田で、その後内川砂村新田呼ばれ、さらにその後内川新田というになった当時森崎佐原辺りから南東江戸湾現在の東京湾)までは入海になっていて内川入海呼ばれていた。下流部八幡原新畠)は土手を築くだけで比較容易に完成したらしく、この辺りに新三郎家(後には新四郎家も)の屋敷使用人住居構えられた。上流部浦賀から野比につながる道のがあった辺り堰き止め入海田畑と川(現在の平作川)にすることによって新田内川入海新畠)とした。 しかし樋門現在の夫婦の少し上流)は大雨などでたびたび壊され、なかなか完成には至らなかった。新左衛門亡くなる9ヶ月前の春、樋門近く笠塔婆型の石碑建てて安楽祈った検地から8年後の石碑建てられたとき寛文7年1667年3月内川新田完成の時とする説もある。しかし、この上流部のほとんどは明治時代までずっと耕作適した土地にはならなかった。延宝7年1679年)には走水奉行大岡次郎兵衛裁定によって新四郎家と新三郎家が等しく内川新田相続しその後四郎家と新三郎家が内川新田二組の名主となって続いた。しかしその後内川新田経営は困難を極め江戸時代後期には両家とも衰退し絶家至っている。新四郎家分は浦賀干鰯宮原屋与右衛門買収して継ぎ与兵衛(与右衛門隠居名)が名主務め新三郎家は熊谷から来た善六砂村血縁の女を娶ることによって砂村家を再興したその後内川新田与兵衛組・善六組の二組体制となった内川新田範囲は今の平作川下流域森崎先から湾口まで)の平地部分で、今の横須賀市内川1,2丁目、内川新田久里浜一・四五丁目大部分久里浜六丁目一部および舟倉一部などである。夫婦から下流部大正時代まで入江内川入江になっていて、関東大震災隆起の後埋め立てられたものである。字としては二軒家下・意休・一ノ割池田下・牛島ニノ割・吉井下大川通・火下・中土手・子ノ神・船蔵下・観音堂庚申下・塩場・明浜・砂間・松原があった。砂間と松原挟まれ丸畑呼ばれる場所は八幡久里浜村飛び地内川新田ができる前から耕作されていた。

※この「内川新田について」の解説は、「砂村新左衛門」の解説の一部です。
「内川新田について」を含む「砂村新左衛門」の記事については、「砂村新左衛門」の概要を参照ください。

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