兵法における「殿」とは? わかりやすく解説

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兵法における「殿」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 18:06 UTC 版)

殿 (軍事用語)」の記事における「兵法における「殿」」の解説

本隊後退行動の際に敵に本隊背後暴露せざるをえないという戦術的に劣勢状況において、殿は敵の追撃阻止し本隊後退掩護することが目的である。そのため本隊から支援援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃食い止めなければならない最も危険な任務であったこのため古来より武芸人格優れた武将務め大役とされてきた。 天文12年1543年)、大内義隆尼子晴久籠る月山富田城包囲し攻撃加えたが、逆に味方多くの裏切りが出て大内軍は総崩れになった大内撤退の際、毛利元就隆元父子には殿が命じられた。このとき、尼子軍激し追撃加えて土一揆待ち伏せ受けたため、毛利軍壊滅的な打撃を受け、元就父子自害覚悟するまでに追い詰められとされる。だが、毛利家臣の渡辺通元就甲冑着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を相手奮戦して討ち死にしたことによって、元就父子はなんとか吉田郡山城逃げることができた。 元亀元年1570年)に越前朝倉義景攻めた織田信長義弟である近江浅井長政離反によって敵中孤立した際、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿を引き受けて信長逃がし、自らは奮戦の末に命からがら戦場脱出した件がある(金ヶ崎の戦い)。これはそれまで織田家中で知恵者としては知られていても武勇の士とは見られていなかった藤吉郎家中での評価変え織田家重臣としての地位を築くきっかけとなったといわれる。しかし、最近資料調査によると金ヶ崎では池田勝正殿軍率いて朝倉軍の追撃撃退し木下藤吉郎殿軍一武将として功をあげ織田信長から褒美得たことがわかっている。織田武将表現した、「木綿藤吉秀吉)、米五郎左丹羽長秀)、掛かれ柴田勝家)に退き佐久間(信盛)」という言葉があり、佐久間信盛は殿を巧くこなせる人物であったという。 天正13年1586年)、人取橋の戦いでは兵力で勝る佐竹氏と南奥諸大名連合軍伊達軍圧倒し本陣へと突入した伊達軍伊達政宗を逃がすため、73歳鬼庭良直率いる鬼庭隊が殿となり、人取越えて敵中突入し奮戦している間に政宗本宮城まで後退できた。さらに連合軍追撃する前に日没となりこの日の戦闘終結同日夜に主力である佐竹家部将家臣刺殺されという事件や、本国江戸重通里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため佐竹軍は撤退伊達軍損害を受けながらも壊滅免れた

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