兵法普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:55 UTC 版)
隠居後は妻とともに明石へ戻り、養女(妻大原氏の姪)婿で明石藩松平直常家臣・橋本七郎兵衛(200石)宅に同居し、明石領中ノ庄に居住した。『本庄家系譜』によれば主君の松平直常も度々重矩宅へ立ちよるほど、敬意を払われていた。 また、筑前二天流第5代目福岡藩の立花峯均は病床の4代目吉田実連の意を受けて元禄14年(1701年)、16年(1703年)の2度、明石にいる柴任を訪ね兵法を伝授され、同じ頃に龍野藩で古い武蔵の流儀「多田圓明流」兵法師範であった多田源左衛門祐久も柴任より二天一流の伝授を受け、新旧流儀の合流がなされている。なお、多田家に代々伝わる享保6年(1721年)作成の『圓明流系図』は柴任の口伝を伺わせる内容で、祐久が当時認識していた武蔵の流儀系統が知られる貴重な史料となっている(龍野市立歴史文化資料館蔵)。
※この「兵法普及」の解説は、「柴任三左衛門」の解説の一部です。
「兵法普及」を含む「柴任三左衛門」の記事については、「柴任三左衛門」の概要を参照ください。
- 兵法普及のページへのリンク