全国組織と競技空手の誕生
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空手道の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし1954年(昭和29年)錬武舘が「第1回全国空手道選手権大会」を防具付きルールで実施した。錬武舘(旧名・韓武舘)は遠山寛賢の無流派主義を受け継ぐ道場で、戦後の空手道言論界をリードした金城裕が防具付空手を主導した。この大会は全日本空手道連盟錬武会主催の全国防具付空手道選手権大会という名称で、空手道界最古の全国大会として現在も開催されている。 錬武舘は1959年(昭和34年)実業家であり内外タイムス社、代表取締役社長の蔡長庚から支援を受けて、全日本空手道連盟(旧)に発展。遠山寛賢の修道館を総本部とし、会長に蔡長庚、副会長に小西康裕(神道自然流)、金城裕(韓武館)、顧問に大塚博紀(和道流)、山田辰雄(日本拳法)、儀間真謹(松濤館流)、理事に保勇(少林寺流錬心舘)など当時の空手界重鎮多数が就任し、主催する全日本空手道連盟選手権大会には少林寺流錬心舘や日本千唐会等も参加していた。しかし当時の防具は安全性が十分に確保されていないものであり、危険度が高く、競技として普及するにはまだまだリスクの大きいものであった。 そのため、拓殖大学空手道部などが中心になって創案した「寸止めルール」が、次第に主流を占めることとなった。当たる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、多くの流派で用いられることとなった。 こうして1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟の主催により1957年(昭和32年)に寸止め空手ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催された。 また1962年(昭和37年)には、山田辰雄が後楽園ホールで、「第一回空手競技会」としてグローブ空手の大会を開催した。 1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。全空連は四大流派をそれぞれ統括する日本空手協会(松濤館流)、松涛館(松濤館流)、剛柔会(剛柔流)、糸東会(糸東流)、和道会(和道流)、それ以外の諸派を統括する連合会、全日本空手道連盟(旧)であり防具付き空手諸派を統括する錬武会の6つの協力団体を中心に、「日本の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として結成された。そして1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。 しかし同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。
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