元アメリカ空軍中尉の手記
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「日本航空123便墜落事故」の記事における「元アメリカ空軍中尉の手記」の解説
元アメリカ空軍 中尉マイケル・アントヌッチの手記が事故から10年後の1995年8月20日付「The Sacramento Bee」に掲載され、8月27日「Pacific Stars and Stripes」に転載された。この手記に基づいて日本メディアは自衛隊が米軍の支援を断ったとして、自衛隊批判を展開した。 手記によれば、C-130の乗員だったアントヌッチは、沖縄から横田基地への帰還途中、横田管制からの要請により日航機のレーダー消失地点に向かった。現場山中で火災を発見し横田管制に報告した。横田管制より厚木基地からアメリカ海兵隊〔ママ〕のヘリ (UH-1)が向かっていると聞き、20時50分までにヘリのライトを視認できた。21時05分、海兵隊からC-130に煙と炎がひどくてとても着陸できないと連絡があった。少し移動して乗員2人を降ろす予定だった。海兵隊からC-130に対し司令部に連絡するよう依頼され、アントヌッチが連絡したところ、将校より中止を命じられ帰投を開始した。帰投準備中の21時20分、最初の日本の飛行機が現れた。C-130の乗員は横田に到着後、第861戦術飛行隊の副司令より123便関係のことについて箝口令を布(し)かれたという。Pacific Stars and Stripsが在日米軍 (USFJ)に取材したところ、記録がないとのことであった。 これに対し、元防衛庁 航空幕僚監部広報室長佐藤守は、座間のUH-1が現場に向かったのは事実だが、空自が救助を開始するということになり方向転換したのであって、UH-1の搭乗員がまさに御巣鷹の尾根に降りようとしていたのではない。また、「(米軍からあったのは)現地からけが人を運ぶためのヘリコプターと医療班提供の申し出であって、米軍が当日横田や座間に保有したヘリにはホイスト(吊り上げ機構)や大型サーチライトは装備されておらず、航空機材も空自が保有していないような“特殊なヘリ”ではなかったのである」と反論している。 元航空自衛隊中部航空方面隊司令官松永貞昭は、「米軍の日本側に対する申し出は、『一般的な支援提供が可能な状態にあり、医療班を集合させ、ヘリコプター1機を待機させている』という連絡が、20時30分頃、入間の指揮所にあっただけ。日本側は『まだ探索中であったために、そのまま待機してください』とお願いしました……これが経過の全容です」と応えている。 また、元群馬県警本部長河村一男は、そもそも民間航空機遭難の際、米軍に対して救難要請をするのは救難調整本部 (RCC)が行うと決められており、防衛庁自衛隊は(派遣を要請するのも断るのも)その立場にないこと、アントヌッチの手記ではC-130が現場上空に滞在した2時間、日本の航空機を全く見なかったとしているが、19時21分にF-4、20時42分にはKV-107が、21時06分には朝日新聞社ヘリコプターが現場上空に到着していると指摘している。河村は、米軍のヘリの派遣や撤収の動きがRCCの要請によるものでないため、在日米軍は対外的に明らかにしたくないのではないか、と推測している。
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