個性派俳優として
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1928年(昭和3年)、築地小劇場の中心人物だった演出家・小山内薫が死去。これにより劇団内部に意思の食い違いが生じるようになり、翌1929年(昭和4年)、丸山、山本、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子(のちに高橋とよ)、細川知歌子(のちに細川ちか子)の6名が脱退、土方を中心にして新築地劇団を結成する。この頃から左翼思想に傾倒していくようになり、昭和6年(1931年)にはプロット(プロレタリア演劇同盟)に加盟した。また、一時期細川知歌子と恋愛関係にあり、四谷に居を構え、貧困に喘ぎながら同棲生活を送っていたこともつとに知られる話である。 尾崎士郎『人生劇場』の吉良常、ゴーリキー『どん底』のルカ、チェーホフ『桜の園』のロパーヒンなど、新築地劇団で丸山が演じた役は90以上にのぼる。特にモリエール『守銭奴』のアルパゴン役は、彼の代表作とされている(後に鎌倉市小町の妙隆寺にアルパゴンを演じる丸山の肖像を刻んだ墓碑が建てられることとなる)。一方、同棲中の細川が病に倒れた際、窮乏した生活の中でなんとか栄養のある食事を与えて回復させてやりたいという思いから、旧友である榎本を訪ねた。丸山から事情を聞いた榎本は、当時としては高額であった百円で丸山の身柄を買った。それから約半年間、丸山はエノケン一座に「福田良一」という芸名で出演。新劇役者としての地位を投げ捨て、コメディアンに徹した。 エノケン一座出演と同時期の1933年(昭和8年)、自社製作を開始したばかりのP.C.L.(のちの東宝)と専属契約を結び、映画俳優としてのスタートを切る。おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』(1935年、成瀬巳喜男監督)、『彦六大いに笑ふ』(1936年、木村荘十二監督)、『巨人伝』(1938年、伊丹万作監督※『レ・ミゼラブル』の舞台を日本に置き換えた映画。曽我部刑事(ジャベール)役)、『忠臣蔵』(1939年、滝沢英輔監督※吉良上野介役)などがある。故郷松山とゆかりのある『坊っちゃん』(1935年、山本嘉次郎監督)では山嵐を演じた。国策映画にも多数出演し、『指導物語』(1941年、熊谷久虎監督)など原節子と父娘を演じた作品にも出演している。 丸山は太宰治と親交があり、書簡が数点残されている。小説『酒の追憶』では丸山との交友が描かれている。
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