個性派俳優としてとは? わかりやすく解説

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個性派俳優として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:07 UTC 版)

丸山定夫」の記事における「個性派俳優として」の解説

1928年昭和3年)、築地小劇場中心人物だった演出家小山内薫死去。これにより劇団内部意思食い違い生じるようになり、翌1929年昭和4年)、丸山山本薄田研二伊藤晃一、高橋豊子(のちに高橋とよ)、細川歌子(のちに細川ちか子)の6名が脱退土方中心にして新築地劇団結成するこの頃から左翼思想傾倒していくようになり、昭和6年1931年)にはプロットプロレタリア演劇同盟)に加盟したまた、一時期細川歌子恋愛関係にあり、四谷に居を構え貧困に喘ぎながら同棲生活を送っていたこともつとに知られる話である。 尾崎士郎人生劇場』の吉良常、ゴーリキーどん底』のルカチェーホフ桜の園』のロパーヒンなど、新築地劇団丸山演じた役は90以上にのぼる。特にモリエール守銭奴』のアルパゴン役は、彼の代表作とされている(後に鎌倉市小町妙隆寺にアルパゴンを演じ丸山肖像刻んだ墓碑建てられることとなる)。一方同棲中の細川が病に倒れた際、窮乏した生活の中でなんとか栄養のある食事与えて回復させてやりたいという思いから、旧友である榎本訪ねた丸山から事情聞いた榎本は、当時としては高額であった百円丸山身柄買った。それから約半年間、丸山エノケン一座に「福田良一」という芸名出演新劇役者として地位投げ捨てコメディアン徹したエノケン一座出演同時期の1933年昭和8年)、自社製作開始したばかりのP.C.L.(のちの東宝)と専属契約を結び、映画俳優としてスタートを切る。おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』(1935年成瀬巳喜男監督)、『彦六大いに笑ふ』(1936年木村荘十二監督)、『巨人伝』(1938年伊丹万作監督※『レ・ミゼラブル』の舞台日本置き換えた映画曽我部刑事(ジャベール)役)、『忠臣蔵』(1939年滝沢英輔監督吉良上野介役)などがある。故郷松山とゆかりのある『坊っちゃん』(1935年山本嘉次郎監督)では山嵐演じた国策映画にも多数出演し、『指導物語』(1941年熊谷久虎監督)など原節子父娘演じた作品にも出演している。 丸山太宰治親交があり、書簡が数点残されている。小説『酒の追憶』では丸山との交友描かれている。

※この「個性派俳優として」の解説は、「丸山定夫」の解説の一部です。
「個性派俳優として」を含む「丸山定夫」の記事については、「丸山定夫」の概要を参照ください。

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