個人による暗殺未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 16:23 UTC 版)
「ヒトラー暗殺計画」の記事における「個人による暗殺未遂事件」の解説
1938年11月9日、スイスの神学生モーリス・バヴォー(de:Maurice Bavaud)による暗殺未遂 ミュンヘン市内の将軍廟の前でミュンヘン一揆記念パレードが行われた際、ヒトラーを拳銃で射殺しようと試みたが、パレード見物の大勢の群集に阻まれて狙いが定められず失敗。1週間後に国境に向かう途中の列車内で無賃乗車とミュンヘンの地図およびピストル所持の容疑で逮捕された。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所で死刑を宣告され、1941年5月、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所でギロチンによって処刑された。 1939年11月8日、当時36歳の家具職人ゲオルク・エルザーによる暗殺未遂。 ヒトラーは1923年11月8日のミュンヘン一揆を回顧するため、毎年その日にビアホール「ビュルガーブロイケラー」で約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有ったエルザーは、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした。 11月8日午後8時、ヒトラーは予定通りにビュルガーブロイケラーに到着。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時12分頃にはビアホールから出た。その数分後の9時20分に爆弾が爆発し、8人が死亡、63人が負傷した。負傷者の中にはヒトラーの恋人エーファ・ブラウンの父フリッツもいた。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、結果的に爆発に巻き込まれなかった。エルザーは11月8日夜、スイスへの国境侵犯の疑いで逮捕された。当初は爆破事件の容疑者とは見なされていなかったが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される。共犯者や背後関係が疑われ、ナチスによる自作自演説も流れたが、結局は単独犯行と断定されている。彼はザクセンハウゼン、次いでダッハウの強制収容所に収監され、大戦末期の1945年4月9日に処刑された。 この事件以後、爆発物の管理が厳重になり、その結果大掛かりな抵抗運動がやりにくくなったことは否定できない。
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