信玄・勝頼期の活動
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『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣を守ったという。戦後、武田家中では信玄の嫡男・武田義信による謀反が発生する(義信事件)。『甲陽軍鑑』では事件を永禄7年(1564年)7月の出来事としているが、永禄8年(1565年)6月に義信とその側近である長坂・曽根氏が二宮・美和神社へ太刀を奉納していることから、実際には永禄8年7月の出来事であったと考えられている。義信事件は三国同盟維持派の義信と今川氏との同盟を破棄する信玄派の間の対立構図が考えられているが、『甲斐国志』に拠れば、身延過去帳を根拠に永禄9年(1566年)に信君の弟・穴山信嘉(信邦、彦八郎)が自害したことを記しており、義信事件と関係があるとも考えられている。当主である信君の立場は不明であるが、穴山家中においても内訌が存在していたとも言われる。 武田氏は信玄後期に駿河国・遠江国への侵攻を行い織田・徳川勢力と対峙するが、この駿河・遠江侵攻において信君の活動が見られる。武田氏は永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始するが、信君は侵攻に際して内通を試みた今川家臣や徳川氏との取次を務めている。翌永禄12年(1569年)には、富士氏が籠城する大宮城を葛山氏元と共に攻めている。その後駿府を占領した武田氏に対し相模国の後北条氏・三河国の徳川氏が今川救援のために出兵すると、同年4月に武田方は一時甲斐へ撤兵する。この際に信君は興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行を与え在地支配を試みている。 駿河は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという。 天正3年(1575年)5月21日に行われた織田・徳川連合軍との長篠の戦いでは武田信豊・小幡信貞と共に中央に布陣する。長篠の戦いでは多くの武田重臣が奮戦して戦死しているが、信君・穴山衆に関しては諸記録に戦闘の様子を記したものが見られず、穴山衆の多くも戦後に無事帰還している。『甲陽軍鑑』『甲陽軍鑑末書』では、信君は長篠合戦において積極的攻勢に出なかったと記しており、信君は決戦に反対したとする記録も見られる。 長篠合戦に敗退した武田勝頼は信濃国へ逃れると戦後処理を行い、同年6月2日に甲府へ帰還した。『甲陽軍鑑』において、信濃北部の海津城に在城していた武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は敗戦の報を知ると信濃国駒場において勝頼を迎え、五箇条の献策を行ったという。虎綱は五箇条の献策において相模の後北条氏との婚姻による甲相同盟の強化や、戦死した重臣子弟の奥近習衆取り立てなどを進言し、第五に武田信豊と穴山信君の切腹を進言したという。『甲陽軍鑑』では虎綱が信君・信豊に切腹を求めた詳細は記していないが、勝頼は北条との同盟を除いて、虎綱の献策を退けたという。
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