伏見大手座
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正確な成立時期は不明であるが、明治中期のある時期、京都府紀伊郡伏見町(現在の同府京都市伏見区)の大手筋に福富座として開館する。その後、1895年(明治28年)には従来の館主から交代したため伏見大手座と改称し、同年7月11日、大阪から二代目市川市十郎らの一座を招いて公演を行い、これをもって同座の開館とする。同地は、1895年(明治28年)2月1日に京都電気鉄道伏見線(のちの京都市電伏見線)が開通して大手筋電停が主要駅として設置され、大手筋には商店が立ち並び、賑いを見せていた。1897年(明治30年)12月には、劇場経営会社「伏見大手座株式会社」が設立されている。1903年(明治36年)1月5日・7日・29日付の『大阪朝日新聞京都附録』によれば、同座は破損のため興行を停止しており、仮小屋を当時風呂屋町に存在した伏見郵便局前に設置して中村鴈笑(のちの市川左文次)の一座が公演、同月26日をもって仮小屋を廃座したという。このとき伏見町内の有志家が出資して、同座の新築を行っている旨、報じられた。 その後、同座は再建されることなく放置されたが、同町向島の井目喜三郎が5,000円(当時)の巨費を投じて新築し、1907年(明治40年)1月15日に新築祝式、同月19日には落成式を挙行した。1910年(明治43年)4月15日には、京阪本線開通とともに伏見駅(現在の伏見桃山駅)が大手筋東側に開業した。同年8月22日付の『大阪朝日新聞京都附録』に、長谷川宗太郎が同座の経営に乗り出し、旧来の悪弊を一掃するとの記事が掲載される。この長谷川宗太郎は、宗次郎とも呼ばれる人物であり、のちの俳優の長谷川一夫(1908年 - 1984年)の母の弟にあたり、家業の造り酒屋「名護屋」を継承しつつ、劇場経営、映画館経営を手がけ、京都市議会議員にもなった人物である。同年12月10日付の『京都日出新聞』には、松竹合名(現在の松竹)が、伏見に唯一の劇場としてある大手座だけでは手狭であるとして、「伏見明治座」を建設すべく大手筋紺屋町西入ルの土地を購入との記事が掲載されているが、同計画のその後については不明である。つまりは、大手座は、明治末年の時点では、伏見唯一の劇場であった。 座主・宗太郎の甥、長谷川一夫は、幼少時から大手座に出入りし、1913年(大正2年)には、中村鶴之助一座の『菅原伝授手習鑑』に代役として子役出演、菅秀才を演じて舞台デビューしている。1927年(昭和2年)には、一夫に対して映画界入りを勧め、同年、一夫は松竹下加茂撮影所に入社している。 1928年(昭和3年)11月3日には、奈良電気鉄道桃山御陵前駅(現在の近畿日本鉄道京都線同駅)が開業した。大手座はその後も多くの芝居等を上演したが、『近代歌舞伎年表 京都篇』をみる限りでは、1934年(昭和9年)9月20日から2日間にわたって上演された女流奇術師・松旭斎天勝の引退興行の記事の後、上演記録が見当たらない。長谷川宗太郎は同座のほか、伏見帝國館、風呂屋町の伏見映画劇場(伏見松竹館)を経営した。
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