他殺説の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:04 UTC 版)
下山が総裁だった当時の国鉄の幹部や従業員の中には、「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」という矜持が強かった[出典無効]。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実直な下山が、遺書も残さずに死ぬわけがない(国鉄の同僚の島秀雄・加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。[要出典] 轢断面やその近辺の出血といった痕跡がないのは、轢かれる前にすでに死んでいたことを意味する(東大・古畑説)。(ただし遺体を剖検した法医学者の古畑種基は「死後轢断」と断定しただけで、他殺とは言わなかった。理屈のうえでは、自殺者の遺体が轢かれても死後轢断になることに注意) 前日7月4日の午前11時頃、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。 現場で発見された下山の靴は、毎日下山家の書生が磨いていた。書生の証言によれば、下山はこの靴を大切にしており、必ず橙色のコロンブス靴クリームを使って磨かせており外で靴磨きに磨かせたことはなかった。だが発見された靴にはコロンブスではないメーカーの焦げ茶色のクリームが塗られており、塗り方も書生の丁寧な塗り方とは異なり、靴紐や紐を通す穴などにクリームが付着している乱雑な塗り方であった。靴磨きを商売とする者がこの様な乱雑な仕事をすることはあり得ない。また靴紐の結び方も下山のものとは異なっており、下山の妻は下山の結び方とは全く違うと証言している。 下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の捺染で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い。 当日現場付近で目撃された下山らしき人物は、故意に目撃されるように行動していたと思われる。これから自殺しようとする人間が人目に付くような不可解な行動をするとは考えにくい。 下山は当日朝食時、同日に名古屋から帰郷する予定の長男に会うのが楽しみだと語っていた。 仮に捜査一課が作成した自殺説に基づく報告書に書かれていることが全て事実であるとするならば、下山は5日20時50分に最後の目撃者である三田喜代子に目撃された後、列車に轢断される6日0時20分までの3時間30分の間に、自分でヌカ油が大量にある工場に忍び込み身体に油を浴び、染料のある倉庫に忍び込んで身体に染料をまぶし、石膏の塗られている壁を探し出してそこに寄りかかって石膏の粉を付着させ、その後線路脇のロープ小屋に移動して自分の身体に傷を付けて出血させ、小屋の床に血溜まりを作った後小屋の扉に手で血をなすり付け、それから線路に上がり血を滴らせながら東武線のガード下まで右左によろけながら歩き、時には立ち止まって血溜まりを作り、轢断現場にたどり着いた後靴を脱いでレールの上に置きその場にうつ伏せで横たわり、その後列車に轢断されたことになる。
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