今治市政
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今治市長の田坂敬三郎は1962年今治市長選に3選を目指して出馬した。羽藤も民社党を中心とする革新系、自民党国会議員の井原岸高、前衆院議員の村瀬宣親、反田坂の市議たちから支持を受けて、公示直前に今治市長に政治生命をかけて立候補を表明した。羽藤の革新系・井原派・村瀬派「三派連合軍」に対抗して、田坂は衆院議員八木徹雄率いる「八木派ライン」の支持を受けていた。白石のもとで「一枚岩体制」を敷いていた県議会自民党は、村瀬派の山本博通と八木派の越智伊平が対立し、調整も失敗したため、この2人以外の県議は今治市長選に関与しないこととされた。羽藤は落選の連続で同情票を集めた結果、現職の田坂を破り今治市長に当選した。市長当選後の羽藤は、自民党友となり保守系市議の支持を得たため、1966年今治市長選では圧勝した。 1970年今治市長選は、現職の羽藤と久松・自民党県議団が推す山本博通が立候補した。保守分裂選挙となった結果、今治の自民党市議団・経済界も相分かれる混戦となった。選挙戦を優位に進めた山本は「県政直結の市政」、対する羽藤は 「市民のための市政」を掲げた。しかし、市民が県政からの市政介入に反発したこと、革新系の票が羽藤に流れたことにより羽藤が勝利した。1974年・1978年の市長選はいずれも日本共産党しか候補者を立てず、羽藤が圧勝した。こうして、羽藤は5期20年もの長きにわたって今治市長の舵を取った。 日本が高度経済成長を遂げた1960年代、羽藤は港湾・道路・校舎・下水道・公営住宅など、今治のインフラ整備を推進した。1969年には本四連絡橋公団が設置され、しまなみ海道(尾道-今治ルート)の建設も始まった。また、玉川ダムを建設し、水資源の確保にも努めた。しかし1970年代に入ると2度のオイルショックなどによって、地場のタオル産業や商店街が打撃を受けた。1979年末には今治を造船不況が襲い、波止浜造船が倒産した。 羽藤は1982年今治市長選挙で6選を目指し、立候補を表明した。これに対して自民党県議の岡島一夫も立候補し、保守分裂選挙の構図となった。自民党は調整に乗り出し、東京の自民党本部で話し合いが行われた。この時、羽藤の一本化で岡島も同意したとされるが、岡島の支持者たちは納得せず、岡島自身も降りるに降りられなくなった。結局、岡島は自民党を離党し、無所属での立候補を選択する。この結果、羽藤は党友として自民党県連の推薦を得た。さらに羽藤は衆院議員越智伊平や今治市議の3分の2、社民党今治支部の支援を受けていた。中央からも自民党幹部・竹下登や大蔵大臣渡辺美智雄らが訪れ、応援を受けた。一方、岡崎は衆院議員・森清、前今治市長・田坂、一部県議などから支持を受けていた。12年ぶりの保守分裂選挙となったが、12年前とは逆に羽藤は自民党の推薦を得て、無所属候補と戦うという構図になっていた。この時羽藤は78歳であり、高齢多選批判に晒された。さらに岡島が無所属として幅広い支持を集めた結果、羽藤は1万4000近く票差をつけて敗北した。
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