今治市政とは? わかりやすく解説

今治市政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 07:03 UTC 版)

羽藤栄市」の記事における「今治市政」の解説

今治市長田坂三郎1962年今治市長選に3選を目指し出馬した。羽民社党中心とする革新系自民党国会議員井原岸高、前衆院議員村瀬宣親反田坂の市議たちから支持受けて公示直前今治市長政治生命をかけて立候補表明した。羽革新系井原派・村瀬派「三派連合軍」に対抗して田坂衆院議員八木徹雄率いる「八木ライン」の支持受けていた。白石のもとで「一枚岩体制」を敷いていた県議会自民党は、村瀬派の山本博通と八木派の越智伊平対立し調整失敗したため、この2人以外の県議今治市長選に関与しないこととされた。羽落選連続同情票を集めた結果現職田坂破り今治市長当選した市長当選後の羽は、自民党友となり保守系市議支持得たため、1966年今治市長選では圧勝した1970年今治市長選は、現職の羽久松自民党県議団が推す山本博通が立候補した保守分裂選挙となった結果今治自民党市議団・経済界も相分かれる混戦となった選挙戦優位に進めた山本は「県政直結市政」、対する羽は 「市民のための市政」を掲げた。しかし、市民県政からの市政介入反発したこと、革新系の票が羽流れたことにより羽勝利した1974年1978年市長選はいずれ日本共産党しか候補者立てず、羽圧勝した。こうして、羽5期20年もの長きわたって今治市長舵を取った日本高度経済成長遂げた1960年代、羽港湾・道路校舎下水道公営住宅など、今治インフラ整備推進した1969年には本四連絡橋公団設置されしまなみ海道尾道今治ルート)の建設始まったまた、玉川ダム建設し水資源確保にも努めた。しかし1970年代に入ると2度オイルショックなどによって、地場タオル産業商店街打撃受けた1979年末には今治造船不況襲い波止浜造船倒産した。 羽1982年今治市長選挙で6選を目指し立候補表明した。これに対して自民党県議岡島一夫立候補し保守分裂選挙構図となった自民党調整乗り出し東京自民党本部話し合いが行われた。この時、羽一本化岡島同意したとされるが、岡島支持者たちは納得せず、岡島自身降りる降りられなくなった結局岡島自民党を離党し、無所属での立候補選択する。この結果、羽党友として自民党県連推薦得た。さらに羽衆院議員越智伊平今治市議の3分の2社民党今治支部支援受けていた。中央からも自民党幹部竹下登大蔵大臣渡辺美智雄らが訪れ応援受けた一方岡崎衆院議員森清、前今治市長田坂一部県議などから支持受けていた。12年ぶりの保守分裂選挙となったが、12年前とは逆に自民党推薦得て無所属候補と戦うという構図になっていた。この時羽78歳であり、高齢多選批判晒された。さらに岡島無所属として幅広い支持集めた結果、羽1万4000近く票差をつけて敗北した

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