今治市への空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 01:32 UTC 版)
1945年4月26日、4機のB29が飛来し、60発の爆弾を投下。死者68人、重軽傷者34人(死者90人、重軽傷者300人余の説あり)、全壊家屋12戸、半壊42戸(全壊家屋41戸、半壊63戸の説あり)。 5月8日、死者29名、重傷者4名、全壊家屋43戸、半壊98戸。 8月6日0時5分から0時47分、第58爆撃団のB29が64機襲来。死者454人、重傷者150人、全焼家屋8,199戸(8,212戸の説あり)、被災者34,200人、市街地の80%が焼失。犠牲者の中には、松山高等女学校や松山城北高等女学校の女子生徒、沖縄から動員されていた女子工員も多数含まれていた。第21爆撃軍団作戦任務報告書ミッション316。投下された焼夷弾は、M19が489.8米トン、T4E4が12.2米トン、AN-M64が8.0米トン、合計510.0米トン。 2008年3月、別宮山南光坊に、『今治市戰災の碑』が建立されている。
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