人見恩阿・本間資貞の一番槍
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「上赤坂城の戦い」の記事における「人見恩阿・本間資貞の一番槍」の解説
大将阿蘇治時は、戦の前日、明日2月2日正午に開戦すること、また抜け駆けした者は処罰すると通告していた。 開戦の前夜、数え73才(天正本では67才)の老将・人見四郎入道恩阿は、30前後年下の同僚の本間九郎資貞に「ただ朽ち果てて老いで死ぬよりは、抜け駆けして一番槍を取って戦いの中で死にたい」と本音を漏らす。資貞も実は抜け駆けを考えていたので、手柄を独り占めにしようとし、恩阿に向かって馬鹿馬鹿しいと切り捨てた。恩阿は不愉快な顔をして宿舎を出、四天王寺の石の鳥居に何かを書き付けて去った。 結局、恩阿も資貞も抜け駆けをやめず、二人は2日未明に城への道で鉢合わせした。恩阿が「孫ほども年が違う男に出し抜かれるところだったよ」と笑うと、資貞も「この上はもう対立する理由もありません。力を合わせて最期まで戦いましょう」と和解する。二人は古風な名乗りを挙げて城を攻めたが、城中の楠木党は、「やあやあ、あれこそは鎌倉武士様だ。源平合戦の熊谷直実・平山季重を真似しているのだろう。俺たちみたいなあぶれ者に殺されたら大変だ」と無視して全く取り合わなかった。二人がなおも城の入り口を攻めようすると、上から雨のように矢が振ってきたため、鎧に多くの矢が刺さって蓑のようになり、二人は絶命した。 時宗の念仏聖が二人の首級を楠木軍から譲り受け、天王寺に持って帰って、資貞の嫡子、本間源内兵衛資忠に届けた。資忠は何も言わず玉砕しようとしたので、聖は、生き永らえて先祖を供養することこそ最大の親孝行です、と必死になって説得した。聖が説得に成功したと思って場を離れた隙を見計らい、資忠は鎧を着込み、観音に祈りを捧げたあと出陣した。途中、石の鳥居にある恩阿の書付を見て、これこそ後世の物語に残るだろうと思い、右の小指を噛み切り、血で歌一首を書き添えた。 資忠が城中に「冥途の路で父に孝行をしたいから、同じところで討死したい」と願うと、今回は楠木党のあぶれ者たちも感動し、城の入り口を開けた。資忠は一人で五十人余りと戦ったが、衆寡敵せず討死した。人々は、資貞を「無双の弓馬の達者」、資忠を「様(ためし)なき忠孝の勇士」、恩阿を「義を知り命を見る」老戦士だったと讃え、三人の戦死を惜しんだ。 幕軍大将・阿蘇治時は、抜け駆け者が出て討死したと報告を受けたため、急いで出陣すると、四天王寺太子廟の石の鳥居の柱に二首の辞世が書き付けてあった。 花さかぬ 老木のさくら 朽ちぬとも その名は苔の 下にかくれじ(大意:花の咲かない老木の桜は朽ちてしまったとしても、その名声が苔の下に隠れることはないだろう) — 人見恩阿 まてしばし 子を思ふ闇に まよふらん .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}六(むつ)のちまたの 道しるべせん(大意:父よ、しばしお待ちください。私を想ってあの世でも道を迷っているでしょうか。私が今からお供をして、黄泉路の道標となります) — 本間資忠 彼ら三人の肉体は骨となって地に埋もれたけれども、その名声は青雲九天の上よりもなお高く、柱に刻まれた三十一文字を見るもので涙を流さないものは今に至るまで誰もいない、と『太平記』は結ぶ。
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