人権擁護活動とは? わかりやすく解説

人権擁護活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:34 UTC 版)

中川イセ」の記事における「人権擁護活動」の解説

1950年昭和25年)、初代網走市長である吉田栄吉依頼により人権擁護委員就任し女性解放運動携わった自身遊郭経験で、人身売買悲惨さ身をもって知っていたため、この仕事通して人身売買徹底的に撤廃するための運動尽くした。女の体を無理やり売らせて利益を取ること、女性みじめにさせることは中川にとって許しがたいことであった領域外の美幌町斜里町津別町にまで出向き遊郭まがいの営業行なう業者廃業追い込み、あるいは商売替えをさせた。「あいつにかかったら店を潰される」と業者たちに噂され、後をつけられることもあった。女性巡って刃物振り回す者、畳に刃物突き刺して迫って来る暴力団の者、中川喉元出刃包丁突きつける者と渡り合うこともあった。 弱い女性味方との噂が広まりこうした領域外の町の女性から助け求め手紙が届くこともあった。業者のもとから逃亡したいが金がないという女性には金を与え、その返済求めこともしなかった。赤線地帯売春地域)に売られ女性夫婦喧嘩で家を飛び出した女性を家に置くこともあり、いつまで自宅面倒を見た中川のもとには昼夜問わず相談者訪れていたが、折しも戦後の混乱期の上人権擁護委員法施行から1年足らずであり、人権擁護委員制度の趣旨目的理解している人々少数であり、食料がない、衣類がないなどの身の周り相談多かった中川自身も、困っている人を助けることこそがこの仕事信じ戦後の生活厳しさの中、やっとの思いで入手した身の周りのものを、次々相談者与えた前述のように女性たちへの金銭的援助もあり、常に生活は質素であった日本全国から選りすぐられた17名の女性人権擁護委員による婦人問題委員会初代会長評論家大浜英子)の委員にも選出されて、全国規模様々な問題にも取り組み、後には同会の副会長務めた人権擁護委員だった関係で、網走刑務所教誨堂での講演多かった内容はいつも実話であり、宗教などの高尚な話を聞き飽きた受刑者たちに好評得た受刑者たちはしばし中川取り囲み議員運動激励した父親網走刑務所囚人のために周囲から虐められ辛い思いをしている子供を元気づけたこともあった。 1963年昭和38年)まで人権擁護委員務めた後、1966年昭和41年)にはこの人擁護活動により、藍綬褒章受章同年藍綬褒章受章者の内、女性中川1人であった1971年昭和46年)には勲五等宝冠章受章し2度法務大臣表彰受けた全国的に人権擁護委員女性登用するようになったのは中川きっかけだったとの声もある。 多く公職務めた中川にとって、この人擁護活動は最も精神的な負担大きかったが、それだけやりがい感じ仕事でもあった。他の公職辞職するときもさほど感傷感じなかったものの、人権擁護運動の辞表を書くときには、「涙を堪えることができなかった」と後年語った

※この「人権擁護活動」の解説は、「中川イセ」の解説の一部です。
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