人権擁護活動
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1950年(昭和25年)、初代網走市長である吉田栄吉の依頼により人権擁護委員に就任し、女性解放運動に携わった。自身の遊郭の経験で、人身売買の悲惨さを身をもって知っていたため、この仕事を通して、人身売買を徹底的に撤廃するための運動に尽くした。女の体を無理やり売らせて利益を取ること、女性をみじめにさせることは中川にとって許しがたいことであった。 領域外の美幌町、斜里町、津別町にまで出向き、遊郭まがいの営業を行なう業者を廃業に追い込み、あるいは商売替えをさせた。「あいつにかかったら店を潰される」と業者たちに噂され、後をつけられることもあった。女性を巡って刃物を振り回す者、畳に刃物を突き刺して迫って来る暴力団の者、中川の喉元に出刃包丁を突きつける者と渡り合うこともあった。 弱い女性の味方との噂が広まり、こうした領域外の町の女性から助けを求める手紙が届くこともあった。業者のもとから逃亡したいが金がないという女性には金を与え、その返済を求めることもしなかった。赤線地帯(売春地域)に売られた女性、夫婦喧嘩で家を飛び出した女性を家に置くこともあり、いつまでも自宅で面倒を見た。 中川のもとには昼夜を問わず相談者が訪れていたが、折しも戦後の混乱期の上、人権擁護委員法施行から1年足らずであり、人権擁護委員制度の趣旨や目的を理解している人々は少数であり、食料がない、衣類がないなどの身の周りの相談も多かった。中川自身も、困っている人を助けることこそがこの仕事と信じ、戦後の生活の厳しさの中、やっとの思いで入手した身の周りのものを、次々に相談者に与えた。前述のように女性たちへの金銭的援助もあり、常に生活は質素であった。 日本全国から選りすぐられた17名の女性人権擁護委員による婦人問題委員会(初代会長は評論家の大浜英子)の委員にも選出されて、全国規模の様々な問題にも取り組み、後には同会の副会長も務めた。 人権擁護委員だった関係で、網走刑務所の教誨堂での講演も多かった。内容はいつも実話であり、宗教などの高尚な話を聞き飽きた受刑者たちに好評を得た。受刑者たちはしばしば中川を取り囲み、議員運動を激励した。父親が網走刑務所の囚人のために周囲から虐められて辛い思いをしている子供を元気づけたこともあった。 1963年(昭和38年)まで人権擁護委員を務めた後、1966年(昭和41年)にはこの人権擁護活動により、藍綬褒章を受章。同年の藍綬褒章受章者の内、女性は中川1人であった。1971年(昭和46年)には勲五等宝冠章を受章し、2度の法務大臣表彰を受けた。全国的に人権擁護委員に女性を登用するようになったのは中川がきっかけだったとの声もある。 多くの公職を務めた中川にとって、この人権擁護活動は最も精神的な負担が大きかったが、それだけにやりがいを感じる仕事でもあった。他の公職を辞職するときもさほど感傷を感じなかったものの、人権擁護運動の辞表を書くときには、「涙を堪えることができなかった」と後年に語った。
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