井上毅の仏民法批判
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1872年(明治5年)4月、江藤は欧米の司法制度の視察を希望、政府の辞令を得たが、多忙のため随員のみの派遣を決断。 出立前には次のように訓示。 諸君洋行の要は、各国の…長を採りて短を捨つるに在り。徒(いたずら)に各国文明の状態を学びて、悉く之を我国に輸入するを趣旨とすべきにあらず…之を観察批評するの精神を以てせざるべからず。…悉く彼に心酔して其欠点を看過せずんば…却て国家を毒するに至るべし。 — 江藤新平 1873年(明治6年)、パリでボアソナードに憲法・刑法の講義を受けた官僚の内、通訳無しで講義を理解できたのが、井上毅、名村泰蔵、今村和郎である。 ベルリンにも旅行して法学研究に努めた井上は、仏刑事法の導入に支障は少ないが、仏民法典は中央集権に過ぎ地方慣習への配慮を欠く、整備された裁判制度はかえって公証人などの特権階級化・訴訟費用の高騰を招き庶民の怨嗟の的になっているとの報告書を日本に送った。「民心安堵」のために民法典編纂を急いだ江藤と、人民の利益のために反対した井上は、一見相反するようで、根底で共通していたとも考えられている(坂井雄吉)。 また、この時井上が着目したのはプロイセンではなく、あくまで領邦の多様性を内包した連邦国家としてのドイツであり(後述)、国情・国民性が大きく異なると当時考えられたプロイセンの法典を模範法に考えたというのは後世の誤解だとの主張がある(山室信一)。またドイツ一辺倒ではなく、行政はフランス流の中央集権を支持している。 井上はその後も終生ボアソナードと強い絆で結ばれていたが、法典論争では延期派。論文は1890年(明治23年)の「法律ハ道理ニ対シテ不完全ナルノ説」「民法初稿第三百七十三条ニ対スル意見」がある。名村、今村は断行派。
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