五輪代表落選 - その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:18 UTC 版)
「松野明美」の記事における「五輪代表落選 - その後」の解説
日本陸上・長距離界の女王から一転悲劇のヒロインとなった松野は結局失意の中、マラソンで次の1996年アトランタオリンピック女子マラソン代表を目指すこととなる。しかし、1992年8月の北海道マラソン・女子の部では20Km過ぎで優勝争いから脱落、30度近い気温と強い風が終盤松野を苦しめ、結局2時間38分台の4位(同レースではオルガ・アペル( アメリカ合衆国)が優勝、2位に浅利純子。特別ゲスト解説は有森裕子が担当)と低迷した。 翌1993年1月の大阪国際女子マラソンに出走予定だったが故障により欠場、同年3月の名古屋国際女子マラソンで松野は進退をかけてレースに臨んだ。その名古屋ではレース終盤まで優勝争いを演じ、優勝したカミラ・グラダス( ポーランド)にあと一歩及ばなかったが、日本人トップの2位の好成績をあげる。その後同年大阪国際で優勝した浅利純子、2位の安部友恵とともに、1993年世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン代表入りの切符を手にする。しかし、オリンピック代表選考騒動後の松野にとって、肉体的にも精神的にもピークを維持し続けることはもはや不可能であった。 浅利純子が2時間30分03秒の金メダル、安部友恵が2時間31分01秒の銅メダルに沸く世界陸上シュトゥットガルトの競技場に、松野がようやくゴールしたのは優勝の浅利から遅れること8分。8位入賞にも及ばない11位の成績に終わった松野は、競技場内で待っていた浅利と安部に、精根尽きた状態で倒れ込んでしまった。全日本実業団対抗女子駅伝での鮮烈な全国デビューから6年、増田からエースの座を華々しく奪った松野が、ひっそりと表舞台から降りた瞬間である。そして日本女子長距離界はマラソンでは有森・浅利・安部らを始め、トラックでは志水見千子・千葉真子・川上優子等、同じ1968年生まれの真木和・鈴木博美・弘山晴美、そして高橋尚子・野口みずきへと続く群雄割拠の時代=日本女子マラソン黄金期を迎えた。 現役引退後、松野は週刊誌媒体で日本陸連を告発するような以下の発言をしている。 「私はあの時、何も無理やりお願いするつもりで『私を選んでください』って記者会見を開いたんじゃないんです。あの時は絶対オリンピックの女子マラソン代表に選ばれると思って『頑張って金メダルを取ります』っていう挨拶だったんです」 「代表発表の日も期待感一杯で、まさか落ちるなんて考えもしなかった。ニコニコドーの合宿所で岡田監督に呼ばれた時、朗報だと思って飛んでいったんです。そしたら『落選』って聞かされて、頭の中がもう真っ白!その直後の事はよく覚えていませんが、それからマラソンをずっと恨み続ける毎日でした。なんでこんな裏切られ方をするのかって」 「別に有森裕子さんをけ落として出たいっていうんじゃなくて、私はマラソンで五輪に出たかっただけなんです。有森さんを恨んではいませんが、でも私よりタイムが悪かった有森さんが何故選ばれたんでしょうか?今でもよく分からないです、はい」 松野と有森はバルセロナ五輪の当時以来長らく会う機会がなかったが、2011年にTBSで放映されたドキュメンタリー「ライバル伝説・光と影」において、約20年ぶりとなる顔合わせが実現した。この番組は好評を博し、映像を追加する形で2012年6月に映画として公開された。初日の舞台挨拶に出席した有森に松野が「お話できて本当に良かった。つらかったのは私だけじゃなかったと知り、心の中に残っていたものがスッとなくなりました。でも今でも『私なら金(メダル)を獲れた』と思っています(有森・舞台客らも思わず苦笑していた)。いつか一緒に走りましょう」という電報を送ったことが、有森より紹介された。
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