五輪塔と板碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
五輪塔は、平安時代のなかばごろから死者への供養塔または墓標として用いられてきたが、院政期から鎌倉時代にかけて盛行した。密教には万物を生成する5つの構成要素(地・水・火・風・空)があり、この5要素をすべて形に表していることから、この名がある。すなわち、上から団形式の空輪、半月形の風輪、三角形の火輪、円形の水輪、方形の地輪である。真言律宗の叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったといわれており、重源にまねかれて宋より渡来した石大工伊行末の子孫(伊派)などの石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔製作にたずさわった。五輪塔は江戸時代までつくられるが、鎌倉時代のそれは隙なく積まれ、火輪が軒厚で四端を直線的に切り、水輪は完球体に近いなど、全体的に安定感があって格調の高いものが多いといわれている。 これに対し、板碑(板石塔婆)は追善供養または逆修供養のため、鎌倉時代にはじめてつくられた供養塔であり、記年銘のある最古の例は埼玉県熊谷市須賀広に所在する1227年(嘉禄3年)のものである。板碑は鎌倉時代後葉に全国に普及し、南北朝時代・室町時代に最盛期をむかえ、最新のものは17世紀代に属する。板碑は「板石塔婆」ともいい、九州地方から東北地方・北海道地方までの全国各地に分布し、現地の川原石を利用した簡素なものがある一方、武蔵国秩父産の緑泥片岩でつくられたものも広い範囲でみられ、これにより「青石卒塔婆」の名称もある。 板碑の多くは種子をあらわす梵字が線刻されており、ごく稀少ながら仏像(阿弥陀如来像)が彫られることもあり、また、建立者の名や建立年が記されることがある。特殊なものとしては「南無阿弥陀仏」の文字が刻されている名号板碑があり、これは、時宗信仰をあらわす遺構である。分布状況などから、東国で発生し、幕府御家人が各地に地頭などとして入部したことにより全国的に波及したものと考えられ、東国武士の信仰のあり方の一端を示す金石資料として注目される。 十三重石塔も普及し、大和国般若寺(奈良市)の十三重石塔は伊行末の作品として知られる。同寺には、伊行末の子息伊行吉によってつくられた笠塔婆2基もあり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
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