二体問題と三体問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:03 UTC 版)
上述のように、アイザック・ニュートンはプリンキピアにおいて惑星軌道が円錐曲線であるならば逆二乗則に従う中心力が作用していることを示したものの、逆に逆二乗則の重力を受けて運動する物体の軌道がどのようなものかという問題に対しては十分な回答を著述しなかった。この問題は1710年の Jakob Hermann の研究、そしてそれに続くヨハン・ベルヌーイの研究によって解決された。 1730年代にピエール・ルイ・モーペルテュイ (1698-1759) 率いる観測隊は地球が赤道付近で膨らんでいる扁球であることを証明した(フランス科学アカデミーによる測地遠征)。これにより地球の形状に関するジャック・カッシーニ (1677-1756) の測量が棄却され、それと対立していたニュートンの理論の正しさが明らかになった。この観測に参加していたアレクシス・クレローは地球の形状に関する1743年の著書 Théorie de la figure de la terre を出版した後に天体力学の研究を始め、1747年11月にパリで三体問題に関する口頭発表を行い、月の近地点移動を説明するためには万有引力の法則に逆三乗則に従う付加項が必要であると主張した(逆二乗則に補正を加えるというアイデアは John Keill にまで遡る)。この主張は激しい拒否反応を引き起こし、短距離側ではなく遠距離側で万有引力の法則を修正する必要があると考えていたレオンハルト・オイラーとの間で論戦となった。ダランベールもこの問題に興味を示し、独自のアイデアで研究に参入した。1714年に英国が定めた経度法の懸賞金に繋がる可能性から月の近地点移動はこの三者による研究競争となったものの、1749年にクレローは当初の主張を撤回し当時は無視されていた太陽による高次摂動を考慮することによって月の近地点移動を説明できることを示し、この成果によって帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの賞を1750年に獲得した(受賞論文 Théorie de la lune は1753年に出版された)。その後クレローはハレー彗星の軌道の摂動計算などの研究を行っている。 1748年にパリの科学アカデミーは木星と土星の相互摂動に関するコンテストを開催し、レオンハルト・オイラーが優勝した(受賞論文は1749年に出版された)。彼は木星と土星の運動のケプラー軌道からの逸脱を完全に説明することはできなかったものの、その後の天体力学の研究において極めて重要な役割を果たす三角級数の方法を導入した。またオイラーの研究には観測データからのパラメータ推定に関する先駆的な業績が含まれている(当時最小二乗法は考案されていなかった)。 トビアス・マイヤー (1723-1762) はオイラーの木星と土星の理論を発展させ太陽-地球-月系に応用することにより、月の天文表を作成し1753年に出版した。その正確さは1760年までにジェームズ・ブラッドリー (1693-1762) の観測によって裏付けられ、1767年に創刊された航海年鑑の基礎となった。 レオンハルト・オイラーは三体問題を求積するために運動の積分を探し求めたものの、必要な数の積分を得ることはできなかった。そこで三体が同一直線に乗る配位の特殊解に目を向け、1766年に三体問題に関する論文 Considerationes de motu corporum coelestium の中で制限三体問題の平衡点であるラグランジュ点のうち直線解と呼ばれる L1, L2 を発見した。ラグランジュは1772年にすべての平衡点、特に正三角形解を発見した。ラグランジュはまた一般三体問題の18本の方程式を7本の方程式に帰着できることを示している。 円制限三体問題におけるヤコビ積分(英語版)は1836年にカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ (1804-1851) によって導入された。
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