主な「鈴木語録」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/30 06:02 UTC 版)
※下述の話は、主に月刊競輪の記事を参考にした。 「フラワーラインの競走が汚い、とよく言われるけど、九州だって似たようなものだ。」 フラワーVS九州の図式の時代、九州も北村徹や佐々木昭彦をダシに使って中野浩一に勝たせる競走をしたことに対する皮肉。 「甲子園競輪場が全国都道府県選抜競輪を潰した(ようなものだ)。」 1969年、甲子園競輪場で行われる予定だった全国都道府県選抜競輪は開催10日前になって突然中止。そしてその後廃止。 「東西対抗戦になったからこそ2回も優勝できた。」 高松宮杯競輪を2回優勝した荒木実に関連して言った言葉。高松宮杯が東西対抗戦の形式となったのは1973年からだったが、その当時は、「群馬王国」、「宮城王国」、「三強時代」といった東日本断然優勢の時代で、弱体化した西日本の勝ち上がりが比較的楽なのに対し、東日本は有力選手同士の潰しあいが生じてしまったという皮肉を込めて。 「あそこで福島が勝っていれば、中野浩一の全盛期はあと数年遅れていた。」 1978年、西宮競輪場で開催された第21回オールスター競輪決勝で、逃げる中野浩一に対し、弟子の福島の捲りが決まったかに思われたが、2センターで先捲りを放った高橋健二の落車が影響して福島のスピードは直線に入って鈍り、マークの天野康博に最後交わされてしまった。 「こうなることは、最初から分かっていた。」 1987年の競輪祭準決勝で、史上初の特別競輪4連覇がかかった滝澤正光と同型の清嶋彰一が対戦したが、まだペースが上がりきっていない状態のジャン付近で双方落車となり、滝澤の4連覇は潰えた。地元の中野浩一を決勝進出させたい思惑が見え隠れしていたことや(中野はその年の競輪祭を優勝)、同型選手同士が特別競輪の準決勝で対戦するとなると、互いに牽制し合って双方落車といった事態になるか、はたまた互いに潰しあいに終始するだけのレース展開になりやすくなることに対する批判。 「売り上げは「3・8・1(惨敗)」だ。」 1997年、岸和田競輪場で開催された日本選手権競輪の総売り上げが、目標売り上げを大幅に下回る381億円しか売れなかったことに対する皮肉。 「引退表明は、全てのレースを終えてからするものだ!」 1999年、静岡競輪場で行われる日本選手権競輪を前にして引退表明した、井上茂徳について批判。 「うちの親父から、「3バ」は絶対にやめろ!と言われたが、競輪はその中に入ってなかったから大丈夫だった。」 阿佐田哲也編、「競輪痛快丸かじり」のインタビュー記事より。「3バ」とは、競馬、相場、博打のこと。 「加藤晶は、特別競輪の順位決定戦でほとんど1着を取っていた。」 日本名輪会の会員だったものの、現役時代は少々地味な存在だった加藤晶が6回も特別競輪を優勝できたのはこうした実績があったからに他ならない、と論評。つまりは、「負け戦」と言われる、勝ち上がり戦から外れたレースでも、しっかりと勝ちきれ、という意味。
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