加藤晶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 09:20 UTC 版)
加藤 晶(かとう あきら、1931年8月22日 - 没年月日不明)は、元競輪選手。故人。現役時代は日本競輪選手会京都支部に所属。日本競輪学校(当時)第5期生。
来歴
1952年にデビュー。捲りの名人という異名を持ち、後に戸上守や白鳥伸雄も得意とするようになる、「三角捲り」(いわゆるショート捲り)を確立した最初の選手とも言われている。同時期に活躍した同じ京都の選手であった松本勝明や、滋賀の中井光雄といった選手たちと比較すると地味な存在だったが、ここ一番の舞台で勝負強いところを見せ、6回の特別競輪制覇を果たした。
とりわけ、鈴木保巳が競輪中継等でそのことを高く評価していたが、特別競輪の決勝戦には進出できなくとも、決勝戦の一つ前のレースとして行われる順位決定戦(準決勝の4~6着の面々で行われるレース)ではほとんど1着を取っていた。また、荒木実にマーク型の選手を勧めたのは加藤であるが[1]、荒木はその後、高松宮杯競輪を2回制覇した。
1965年に競輪祭を完全優勝で制覇したときは34歳で、当時の特別競輪史上最年長優勝記録であった。また、選手生活の晩年には、「最後の1000勝選手達成か?」という話が競輪マスコミ等からしばし取り上げられたこともあったが、あと僅かで達成することはできなかった。
1985年6月11日、選手登録消除。通算戦績989勝[2]。
引退後、晩年は日本名輪会会員としてファンサービスに務めた。
主な獲得タイトル
- 1955年 - 全国都道府県選抜競輪 2000m(大宮競輪場)
- 1958年 - 全国都道府県選抜競輪 2000m(花月園競輪場)、高松宮杯(大津びわこ競輪場)
- 1961年 - 全国都道府県選抜競輪 4000m(岸和田競輪場)
- 1965年 - 全国都道府県選抜競輪(門司競輪場)、競輪祭全日本競輪王戦(小倉競輪場)
脚注
- ^ 今だから言えること(月刊競輪2004年10月号)
- ^ “神山雄一郎 G1では史上最多の優勝16回&グランドスラム 競輪界初の賞金2億円も達成/函館”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2023年6月4日) 2023年6月4日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 選手プロフィール(データは1976年以降のみ) - KEIRIN.JP
- 内外タイムス 2008年6月12日付記事
|
||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
加藤晶(かとう あきら)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:07 UTC 版)
「医龍-Team Medical Dragon-」の記事における「加藤晶(かとう あきら)」の解説
明真大学助教授にして、明真大学付属病院胸部心臓外科医。朝田が来るまでの胸部心臓外科のエース。自分の野心(バチスタ手術論文による教授昇進)のために朝田をスカウトする。出世街道をひたはしり窮地を政治力で乗り切ってきたキャリアウーマンだが、女らしい繊細な面や弱さも持ち合わせ、医師になりたてのころは当時の婦長だった奈良橋に自身の弱さを吐露する場面もあった。当初はスタッフを信用せず、独りよがりに手術をしていた。
※この「加藤晶(かとう あきら)」の解説は、「医龍-Team Medical Dragon-」の解説の一部です。
「加藤晶(かとう あきら)」を含む「医龍-Team Medical Dragon-」の記事については、「医龍-Team Medical Dragon-」の概要を参照ください。
- 加藤晶のページへのリンク