世界金融危機まで
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1984年ケンピンスキー株を売却してサウジのオイルマネーを手に、コメルツはノンバンク事業から撤退した。1988年、レオンバーガー金庫(Leonberger Bausparkasse)という貯蓄貸付組合の株を40%買った。1987年、オフショア市場として開放されたばかりの東京に証券窓口を設置した。翌年ニューヨークにも展開し、マイケル・ミルケンが逮捕されるまでビッグ・ビジネスを仲介した。ブームが去ってからはドイツ再統一を機会に旧東ドイツで金融網を拡大した。たった一年で120支店を林立させたのである。1993年に欧州連合が誕生し、コメルツは今まで以上に国際ビジネスへ力を入れるようになった。1995年、ジュピター(Jupiter Tyndall Group PLC)株の75%を買収した。ジュピターはミューチュアル・ファンドである。ファンド・マネージャーはマーク(Mark Tyndall)など、フレンズ生命(Friends Provident, 2015年からアビバ)が保有するファンド(Ivory & Sime)の出身であった。 コメルツは金融ビッグバンと連動して日本経済に深く根を張った。磐石かに見えたコメルツであったが、試練もあった。クレメンス・フェダー(Clemens Vedder)らの、よく組織された株主集団がコメルツの経営方針に対して異議を唱えたのである。2000年に彼らは欧州の国外にある銀行との合併を優先するべきだと主張して運動するようになった。それでコメルツはサンタンデール銀行やクレディ・リヨネとかウニクレディトをあたったが、ドレスナーとも交渉した。 コメルツはドレスナー出身のマーティン・ブレッシング(Martin Blessing)を活躍させた。彼の祖父カール・ブレッシング(Karl Blessing)は、国際決済銀行とライヒスバンクでキャリアを積み、ドイツ・ユニリーバ社長を務めた重鎮であった。2002年、ユーロヒポ(Eurohypo)というモーゲージ・プールをドレスナーおよびドイツ銀行と組成した。2005年11月、コメルツはドレスナーから株を買い受けてユーロヒポの支配権を握った。ユーロヒポの組成と買収の間に、コメルツは多数の吸収合併を果した。シュミット銀行(Schmidtbank)やBRE(BRE Bank)である。ユーラシア天然資源開発(Eurasian Natural Resources Corporation, カザフスタンの西欧利権)のメーメット・ダルマン(Mehmet Dalman)が抜けてコメルツは行き先を見失いかけたが、2007年にエッセン抵当銀行(Hypothekenbank in Essen AG)を完全買収し調子を取り戻した。2008年8月31日、ドレスナー銀行を2009年末までに98億ユーロ(約1兆5600億円)で買収、ついでにアリアンツとの資本面、業務面での提携を発表、ドレスナー銀行の買収は2009年5月11日に完了した。合併後の総資産は2007年12月末ベースで約177兆円となった。 2002年から2008年にかけて、アメリカの制裁対象国となっているイランやスーダンとの取引を行うため、制裁対象の機関に代わり、アメリカの金融システム上で資金を動かすなどの違法行為をしていた。また、オリンパス事件に関連する取引について、アメリカ当局に報告しなかった。他に、コメルツ銀行のニューヨーク支店が資金洗浄に関与した事も発覚している。これらの行為について、コメルツ銀行は2015年3月12日、アメリカ当局に14億5000万ドルを支払うことで合意し、和解が成立した。
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