不法行為の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:00 UTC 版)
「ウィリアム・T・アンダーソン」の記事における「不法行為の拡大」の解説
1864年6月、トッドがクァントリル隊の指揮権を奪い、クァントリルを地域から去らせた。トッドは7月に隊員を休ませ、南軍によるミズーリ州侵略に備えさせた。クァントリルとトッドが活動していない中で、アンダーソン隊はミズーリ州で最も良く知られ、最も怖れられたゲリラ隊となった。8月までにミズーリ州の新聞である「セントジョセフ・ヘラルド」が、アンダーソンのことを「悪魔」と表現するようになっていた。アンダーソンが目立つようになると、さらにゲリラ兵を募ることができた。アンダーソンは選別を行うことができ、自分に類似する戦士を求めていたので、最も激烈な志願者以外は全て去らせた。その恐ろしい評判が徴兵活動を活気づけた。この時期にジェシー・ジェイムズが兄弟のフランク・ジェイムズと共に応募し、後に有名な無法者となった(ジェイムズ=ヤンガー・ギャング)。北軍のクリントン・B・フィスク将軍はその部下にアンダーソンを見つけて殺すように命じたが、アンダーソンの支援網とその部隊の優秀な訓練と武器によって妨げられた。多くの民兵隊員が徴兵されたが、ゲリラの大胆さや決断力には欠けていた。1863年に北軍の大半はミズーリ州を離れており、4個連隊が残っているだけだった。これら連隊は州外からの兵士で構成されており、彼等は地元住民を虐待することがあったので、さらにゲリラやその支援者に動機を与えた。北軍の民兵は鈍い馬に乗っていることがあり、アンダーソンの評判に怖じ気づかされていた可能性がある。 1864年7月23日、アンダーソンは65名を率いてレニックの町に入り、店舗から強奪し、途中にあった電信線を切断した。彼等は列車を攻撃できると期待していたが、その車掌が彼等の出現を知って、町に着く前に引き返させていた。ゲリラ隊は続いてアレンの町を攻撃した。第17イリノイ騎兵連隊とミズーリ州民兵隊の少なくとも40名が町に居たが、砦に逃げ込んでいた。ゲリラ隊が守備隊の馬を撃ち倒しただけの時に、北軍の援軍が到着しアンダーソン隊の3名を殺した。7月下旬、北軍は100名の武装の整った部隊と他に650名を派遣してアンダーソン隊を追わせた。7月30日、アンダーソン隊は地元民兵隊指揮官の年取った父親を誘拐した。ゲリラ隊はその老人を死ぬ寸前まで拷問し、その息子には待ち伏せの場所に誘き出すような伝言を送った(待ち伏せは成功しなかった)。その後に父親を釈放し、その虐待について噂を広めるよう指示を与えた。8月1日、民兵隊を探している間にアンダーソンと隊員数名が女性で溢れている家に立ち止まり、食事を求めた。そこで休んでいる間に、地元民の集団が攻撃を仕掛けてきた。ゲリラ隊は直ぐにその攻撃者を追い払い、アンダーソンが家から逃げだそうとした女性を撃って負傷させた。この行動で女性の保護者と思っていた隊員を怒らせたが、アンダーソンはそのようなことは避けられないものだと行って隊員を黙らせた。アンダーソン隊は攻撃してきた者達を追撃して1人を殺し、その体を切断した。1864年8月までに殺した兵士の頭皮を剥ぐのが常態になっていた。 8月初旬、アンダーソン隊はクレイ郡に移動した。この頃、「セントジョセフ・モーニング・ヘラルド」紙は、捕虜になった北軍兵に対する拷問の証言を取り上げて、アンダーソンを「無慈悲な悪党」と呼んでいた。8月10日、クレイ郡を通過中に25名の民兵隊と交戦し、5名を殺し、残りは逃亡させた。この戦闘について耳にしたフィスク将軍は1人の大佐にアンダーソンを殺すことを唯一の目標として部隊を率いて行くよう指示した。
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