上海マンションホテル (ca. 1972 to ca. 1996)
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「ブロードウェイマンション」の記事における「上海マンションホテル (ca. 1972 to ca. 1996)」の解説
1973年の間には、マンションは英語で上海マンションホテルと改称された。しかし、中国名は保持された。1973年から、マンションは在外中国人たちに三番目の選択設備として提供された。「もしこれら二つのホテルに空室がない場合、在外中国人は外灘を見下ろす摩天楼、上海ホテルに入る。」 1970年代のマンションは「外国人技師」の第一の住居であった。イタリア語教師のEdoarda Masiは1976年からこのマンションに住んでおり、このマンションについて「このビルを囲む低いビル群の中にあってマストドンのようである。壁、配管、クローゼットのいずれもがしっかりしている」と書いている。また、このマンションの人気について「時期しだいで、この大きい部屋は半分からから、旅行者で満杯のときもある。長期立ち寄り先として、英語で上海マンションを指して“Dasha”(大厦)として知られている。」と記している1978年、マンションは第三世界から来る旅行者のホテルとして使われることがますます増えた。このため上海では宿泊設備の状況が改善された。1982年にこのマンションに宿泊したアメリカの大学生は「いくつかのみすぼらしい装飾によって飾られた上海マンションのホテルのロビーは夕方には上海在住のアフリカや中東の学生のたまり場となった」と示している。1984年には「上海マンションは「メインビルとサイドビルからなる上海マンションは外国人旅行者、ビジネスマン、在外中国人に親切なホテルであった」としている。このとき、マンションにはデラックススイートを含め370の来客用室があり、ベッドの数は1468台に上った。1985年、観光客は「30年代の要塞上海マンションは、厚い煉瓦の壁を持ち黒い窓があばたになっている。」としている。1985年から1999年の上海マンションの総支配人はTao Pei Tai(1946年8月1日〜)であり、彼は衡山ホールディング・カンパニーの副総支配人であり、このマンションのオーナーであった。 1989年当時、このマンションのダブルの部屋の値段は一晩あたり50US$であった。1991年、中国のトラベルガイドがこのホテルのサービス方針を絶賛して「上海マンションは厳密に「ゲスト第一、サービス第一、礼儀第一、清掃第一」を固守する。」としている。しかしながら1993年9月にはこのマンションは上海の景観の中で優位な建物であるとはいえなくなった。 大都市を告げるものも徐々に変わっていった。もはや壮大なアールデコ様式の姿である上海大厦『上海マンション』や外白渡橋ではない。それは市中央から外灘、それも楊浦大橋のある上流部である。1993年に完成し、役割を開発し、市に入るための大きな水門となった、南浦大橋は下流に位置している。 「屋上のテラスからの川の眺めは...息を呑む」と認められているが、1993年のガイドブックの一つは「残念ながら夕方のこの位置は欠点となっている、川の艀の堂々たる汽笛は不変で、寝るのに問題がある。」と警告している。1995年、上海マンションは州観光局に評価され、12の国家最良格付けホテルに指定された。
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