上告中の被告人B周辺の環境
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「名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件」の記事における「上告中の被告人B周辺の環境」の解説
最高裁上告中の2004年5月、被告人Bは手紙で知り合った兵庫県内在住のキリスト教信徒の主婦だった50歳代女性と名古屋拘置所内で初めて面会した。その2か月後の2007年7月、被告人Bは女性と養子縁組し、「B」から女性の姓「K」に改姓した。 2004年8月、控訴審で被告人Bの国選弁護人を担当していた太田が体調を崩したため、国選弁護人が湯山孝弘に交代した。湯山は、名古屋拘置所で被告人Bと初めて面会した際、その人物像を「普通のおじさん」と受け取っており、面会を重ねるにつれてしばしばBが、自身や養母に対し「もう上告を取り下げたい」「償いが一番つらいし、生きていくのが辛い」と漏らした際には、「反省が足りない。生きて償うように努力しろ」と叱咤した。湯山は、死刑囚Bの人物像を「平気で嘘を言うやんちゃなワルだ。面会で彼に振り回されたこともある」と評しつつも、死刑執行直前まで面会・文通を続け、面会の度に「自分の犯した罪を真正面から受け止めろ」と諭すなど、最後まで1人の人間として向き合おうとし続けていた。 2004年の秋から冬頃、湯山は被告人Bとの面会中、持論の死刑廃止論を語ったが、これに対しBは「死刑制度はあった方がいい」と返した。その根拠は、人生の大半を獄中で過ごしてきた自身の体験を重ね合わせた「仮釈放のない終身制を死刑の代替手段として導入すれば、希望のない生活を続けることになるし、それは耐えられない」という考えに加え、「加害者は一日も早く事件を忘れたいが、被害者遺族は一生忘れられない。被害者・遺族の無念を晴らすためには死刑制度は必要だ」という理由だった。これはB自身、初公判の際に被害者遺族の内縁の夫に殴られた経験があることに加え、1994年に発生した少年犯罪・大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件で自身と同じく名古屋拘置所に収監され、後に死刑が確定した3被告人のうち1人と文通しており、その被告人も同事件の被害者遺族から峻烈な怒りを浴びていることを知っていたためだった。 死刑制度を是認するBの考えを知り、養母は湯山に宛てた相談の手紙で「死刑廃止の願いは被害者遺族のことを考えた上で始まる」と綴っており、後述のように病魔に侵されたために実現しなかったが、Bに殺された被害者女性の遺族と直接対面した上で謝罪することも希望していた。 養母の女性は2005年12月、それまで住んでいた大阪府内(新大阪駅の隣駅)近くのワンルームマンションを離れ、名古屋拘置所から約1kmの近場にあるマンションへと引っ越し、それ以降は頻繁に被告人Bと面会するようになった。しかし、Bの上告審口頭弁論公判直前となる2007年1月に体調を崩したため検査入院した結果、乳癌が肝臓に転移し、病状が深刻な状態に陥っていることが判明したため大阪に戻った。その後も養母は医師から余命宣告を受けつつも、被告人・死刑囚Bと頻繁に文通・面会を続けていたが、Bの死刑確定後の2008年5月に末期癌で死去した。 また被告人Bは、「養母」の女性と知り合った頃、養母以外にも名古屋市のミッション系短大の学校付き牧師を務める男性夫婦と知り合い、面会・文通をするようになった。この夫婦はBの死刑が確定した直後の2007年4月、第一子の女児を授かった。死刑囚Bの養母は生前、自分の死後の死刑囚Bの身元引受をこの夫婦に依頼しており、死刑囚Bは獄中で面会を重ねるうち、幼い夫婦の娘とはあだ名で呼び合うようになっていた。
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