さん‐きょう〔‐ケウ〕【三教】
三教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/18 15:51 UTC 版)


「三教一致」を象徴する慧遠・陶淵明・陸修静の歓談を描く。
三教(さんきょう、さんごう)とは、中国で最も信仰者数の多い仏教・道教・儒教を一括する言葉。ただし、儒教は事実上の宗教では無いことから、この概念については異論がある。
概要
廃仏を断行した武帝は、その廃仏断行前から、三教談論を数次にわたって開催して、その優劣を、儒者・僧侶・道士に討議させていた。
この三教談論の慣習は、隋唐にまで受け継がれ、形式化したものではあったが、宮中で行われる風が受け継がれた。
また、北周の廃仏に関与した衛元嵩には、『斉三教論』7巻の著作があったことが、『旧唐書』「経籍志」と『新唐書』「芸文志」の子部・道家類に著録されている。但し、既に散佚しており、その逸文も見られないことから、その内容を知ることは出来ない。
日本においては近世の一時期、道教が入らず、神道を入れて儒教、仏教、神道を指す言葉として「三教」という言葉が用いられていたことがある[1]。
脚注
関連項目
参考文献
- 常盤大定著『支那に於ける佛教と儒教道教』(1930年)
- 久保田量遠『支那儒道仏三教史論』(1931年)
外部リンク
三教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
後漢代は儒教一尊の時代であった。道教は後漢末頃から教団が形成され始め、太平道・五斗米道の二教団があり、仏教は後漢初期ごろに既に伝来していた。しかし道教・仏教ともに、後漢の滅亡まではあくまで民間の間に広まったに過ぎず、貴族層には広がりを見せていなかった。それが東晋代に大きく勢力を伸ばし、三教と呼ばれるまでになった。 魏晋南北朝にこの二教が勢力を伸ばすことになった理由は、一つはこの時代が戦乱の時代であり、人心不安定な時期であったということである。そしてもう一つは儒教の衰退である。 選挙制の中で最も重要視された孝廉もまた儒教的な君子を求めるものであり、その影響から人目に付くように孝行を行い、そのことによって仕官の道を得ようとする偽善的な人間が増えるようになった。これに対する批判者が漢末の孔融・禰衡、晋の阮籍・嵆康らである。彼らは人前でいきなり裸になる、母の喪中に妾を近づけるなど儒教のモラルから大きく逸脱した行為を行うことで偽君子たちを痛烈に皮肉った。 さらにそれに加え、儒教自身が持つ弱点がこの時代に明らかになった。儒教では「未知生。焉知死」(未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや。)の言葉が示すように、死後の世界というものについては関心を持たない。あくまで重要なのは現実の政治である。しかし八王の乱から永嘉の乱へと続く過酷な状況の中では誰であれ否応なしに死に向き合わなくてはならないが、その答えを儒教は与えてくれなかった。 その答えを与えたのが仏教と道教である。仏教の教義の中では三世報応(輪廻)が、道教では金丹などの不老長生の法がそれまでの有限の命から無限の命の世界を開くことになった。特に仏教には熱心な信者も多く見られ、南朝梁の武帝のように皇帝の身でありながら捨身して「三宝の奴」となってしまった例も見られる。
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