万博と梅棹と小松左京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:25 UTC 版)
梅棹は京都・北白川の自宅で毎週金曜の夜に「金曜サロン」、別名「梅棹サロン」を開いていた。梅棹邸の広間に研究者や編集者など多彩な顔ぶれが集まり、自然科学、人文科学、社会科学をはじめ、京都の話から宇宙の話まで談論風発した。すばらしく刺激的で、しかも堅苦しいムードは皆無の得難い集まりだった。 1963年の終わり頃、梅棹を中心に私的研究会ができ、小松左京も加わった。日本の行く末について幅広く議論するのだが、堅苦しい集まりでなく、知的な遊びのような雰囲気だった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京大教育学部の助教授だった。そうした人たちが個人の利益や金儲けや立身出世など考えないで、知的好奇心の赴くままに愉快に語り合った。日本をどうするのか、未来はどう切り開いていくのか、気宇壮大に、そして面白半分に語り合った。翌年の東京オリンピックが話題になっていて、「五輪の次は大阪で万国博」との情報が聞こえてきたのも、ちょうどそのころだった。 このメンバーを中心に1964年7月、「万国博を考える会」発足。その頃、新聞などではまだ「国際博」という言葉を使っていたが、「国際」という単語には近代主義的、特に「戦後近代主義」的なニュアンスがつきまとってるという梅棹の意見に皆賛成し、あえて「万国博」にした。また国際というと欧米諸国のことだけしか思い浮かべず発展途上国のことも視野に入れてのことだった。)。 梅棹らは当初あくまで知的好奇心からくる私的な研究であり、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった。 1965年春、初めは非公式な接触だった。当時大阪府の職員として万国博の準備にタッチしていた人物が、密かに梅棹邸に訪ねて、万国博のやり方についてどう考えていいか、知恵を貸して惜しいと申し入れた。彼は以前から梅棹に私淑していて、色々助言をもらっていた。また彼は小松とも三高、京大の同期である。 要は「自発的な研究会」として発足したのものが「非公式のブレーン」になってしまいには表舞台に出たという形になる。 梅棹は事務局との関係について「婚約はしないが交際はする」との言葉を残した。 こうした中、11月の博覧会国際事務局 (BIE) の理事会にテーマと基本理念を提出しなければならないという事態が持ち上がっていた。桑原を副委員長にしたテーマ作成委員会は発足していたが、いかんせん時間がなかった。そこで梅棹、小松、加藤の三人に内々に協力要請があり桑原との関係上、理念作りに協力することとなった。 さらに今度はそのテーマをどう展示に結びつけるかというサブテーマへの展開が必要となり、小松と梅棹がテーマ専門調査委員会(通称サブテーマ委員会)の正式委員に名を連ねることになった。 67年、岡本太郎がテーマ展示プロデューサーの役を引き受ける。梅棹は国家公務員なので動けず小松に手伝うように依頼した。
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