ワッパ騒動に立ち上がった主な人々
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鈴木弥右衛門(片貝村) 石代納要求運動の先駆者。1874年(明治7年)1月石代納を戸長に願い出る。その後、本多允釐に相談し、「石代上納嘆願書」を再三酒田県に提出するが、逆に懲戒のため、未納を理由に家財の差押えと家屋の取り壊し処分を受ける。捕縛を逃れ近隣の村々などに潜伏し、6月出国上京、司法省に嘆願した。 白幡五右衛門(上清水村) 小商いの仕事柄、農民と改良派士族との「橋渡し役」として石代上納願運動に関わっていくが、やがて農民の指導者中の指導者として急速に成長する。剛気で弁が立ち山浜通・京田通の村々を廻って、石代会社に組織しながら、運動の輪を職人や漁民にも広げた。9月、上京嘆願のため出国したが新潟県岩船宿で逮捕される。子孫の手になる「白幡五右衛門一代記」が大切に保存されている。 前野仁助(上清水村) 2月の指導者逮捕後も石代納願を考え、本多允釐・高山久左衛門らと共に2度上京。石代会社の結成に当たって白幡五右衛門・佐藤与吉らと共に西郷組や由良組・三瀬組の村々を組織し、田川組の帳簿公開要求にも出向いた。9月金井の帰県に当たって逮捕を避けるため。下山添八幡社に数百人を動員する陽動作戦を指導した。 佐藤八郎兵衛(大淀川村) ワッパ騒動全期にわたる中心的リーダー。1874年(明治7年)1月頃から本多允釐らと接触。2月捕縛され7月に松平裁定により他の農民たちと共に釈放。石代会社の結成を受け、中川通・狩川通の村々を廻り、きわめて説得的な話で農民に感銘を与え村々を会社に組織していった。允釐の逮捕をみてその放免を上京嘆願するも12月警視庁に拘束。 佐藤七兵衛(平京田村) 京田組の中心的指導者。石代会社結成にあたり改良派士族と共に京田組などの村々を廻り、自宅に他の村々からも百人ほど集め会社加入を勧めた。允釐の救出のための酒田襲撃と農民の大挙上京嘆願の方針を、渡会重吉とともに金井の消極的指導を押し切って決定した。自らは金井と共に上京嘆願した。 劔持寅蔵(椿出村) 黒川組の中心的指導者。石代会社への加入を改良派士族と共にすすめる。雑税廃止・帳簿公開要求で組の村々の戸長・村肝煎等を大勢で激しく追求。違約の村にも押し掛ける。允釐逮捕後潜伏していたが、組中の依頼で上京訴願した。 富樫勘助(下山添村) 商売上の出入りで改良派士族と接触。村の総代として石代上納願いを提出。捕縛後、親類預けから脱走、約1か月かけ乞食同様の姿で上京し司法省に訴え出る。 金井質直(1829 - 1879) 旧藩時代の禄高400石、蝦夷地郡代。1873年(明治6年)酒田県官を批判し、司法省に訴える。改良派士族の中心者。農民の石代納嘆願を指導するなど活動するが、1876年(明治9年)に運動から離脱。 本多允釐(金井允釐)(1837 - 1886) 質直の弟。初期のワッパ騒動を指導した旧荘内藩の改良派士族。石代会社結成・加入運動指導で9月11日逮捕。77年1月警視庁に奉職し闘争から離脱、その後検事に任官。 森藤右衛門(1842 - 1885) 酒田三十六人衆唐仁屋(からにや)生れ、ワッパ騒動を建白、訴訟運動に発展させ、農民を勝利に導く。騒動後民権結社尽性社、庄内自由党を結成し、自由民権の指導者となり、荘内新報を発刊した。また酒田町戸長、県会議員として活躍する。
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