ワッパ騒動の拡がりと雑税廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:20 UTC 版)
「ワッパ騒動」の記事における「ワッパ騒動の拡がりと雑税廃止」の解説
政府の金納許可とその有利性を知った農民の要求は全庄内に広がった。1874年(明治7年)3月に、農民たちを指導していた士族本多允釐と前野仁助など農民惣代が上京し内務省に石代納嘆願書を提出したが、内務省は嘆願書を却下すると共に酒田県に実情の報告を指示した。さらに酒田県政に圧制があるのではないかとして、中央政府は7月に内務少丞松平正直を鶴岡に派遣し、取り調べを行った。逮捕者の釈放、明治7年からの石代納実施と雑税類の一部廃止、村費については村役人と話し合うよう裁定していった。しかし、農民達は中途半端なこの裁定にも不満をもち、金井質直らに相談しつつ、1872・1873年(明治5・6年)の過納米金返還や雑税の全面廃止を強く要求し、組村費や地租改正事業の費用取立、それらの支出にも不満をいだき、戸長や村役人の家に押しかけ帳簿の公開を激しく迫った。 また本多允釐など士族や酒田の商人森藤右衛門はじめ川北の豪農・豪商とが協議し、農民が株主となって米を売却納税する石代会社(こくだいがいしゃ)の設立が構想され、村々に加入を勧めていった。石代会社加入は、戸長・肝煎等の支配機構を否定する面でも雑税組村費全廃要求に通じるものであり、富農層だけでなく、中農層・貧農層・職人・日雇層までをも含む、全民衆的規模に発展していった。当寺川南の村数は310あったが、石代会社へ約定書を提出した村は現在判明しているだけでも約250余を数えている。(国立公文書館の資料より) 運動が広がると、酒田県はそれを士族を動員して弾圧を始め、9月11日本田允釐らを逮捕した。これを知った農民達は、逮捕者の釈放を求め酒田県庁に押しかけようと各地に蜂起したが、農村の指導者100余名を一斉に逮捕され、圧倒的な武力の前に鎮圧されてしまった。しかし、川南を中心とした1万数千人にのぼる9月の一斉蜂起闘争により、下敷米・蔵番給など雑税4項目の廃止と村費用の一時取り立て中止を勝ち取っている。
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