ワッピンガー族に対する虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:05 UTC 版)
「ニューヨーク市の歴史」の記事における「ワッピンガー族に対する虐殺」の解説
1638年にウィレム・キーフ(英語版)が植民地指揮官に就任したが、その5年後、彼は入植地拡大を巡って、ワッピンガー族インディアンに「キーフ戦争(英語版)」を挑むこととなる。1643年2月、パヴォニアの虐殺(英語版)ではハドソン川の対岸、現在のニュージャージー州で女子供を含む120人のワッピンガー族が虐殺された。秋にはこの報復として、1500人のインディアン連合軍がニューネーデルラントを攻撃し、虐殺指導者の軍人アン・ハッチンソンを殺した。その冬にはオランダ人の報復によって500人のワッピンガー族が殺された。 一時期インディアンは優勢だったが、オランダ人入植者は共和国に泣きつき、キーフへ援助部隊を受け、またモホーク族と手を組んで、圧倒的な兵力でワッピンガー族を虐殺した。こうして1600年当時、3000人は見積もられたワッピンガー族の人口は、この二年間の戦いで半数の1500人に減らされてしまった。制圧した。1645年8月29日、和平協定が結ばれ戦争は終結した。 1647年5月27日、ピーター・ストイフェサントは到着と同時に指揮官に就任しオランダ改革派として信仰の自由を排除し、また酒場の閉鎖を行った。その結果、1652年、植民地であったニューアムステルダムは独自の政府を持ち、1653年2月2日、正式に地方自治体として本国より認可を受けた。 1655年、再びワッピンガー族は「桃の木の戦争(英語版)」で、白人と交戦する。この戦争は、マンハッタンでオランダ人農業者の果樹園からモモを盗もうとした若いインディアン女性が撃ち殺されたことから始まった。彼女の家族は血の償いのためにワッピンガー族に助けを求め、オランダ人入植者の家から家へと、下手人を探して回った(この際、暴力行為は行っていない)。これに対し、ストイフェサントは彼らを攻撃、再び不満の鬱積していたインディアンたちと白人との戦争となり、ワッピンガー族が虐殺された。この戦争は実はオランダ人側がスウェーデン入植者の追い出しを図ったものとされている。ワッピンガー族らはスウェーデン人入植者とは友好的だった。
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