ワッパ騒動の起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:20 UTC 版)
酒田県(第2次)の上記のような政策に、まず最初に上層農民が反対した。次いで村々の地主・農民・非特権商人の全面的な反対を呼び起こし、庄内の民衆達が施政側に真正面から抵抗する形になっていった。 1873年(明治6年)末に米価の高騰から農民が動きを始め、翌1874年1月最初に片貝村の上層農民で酒造業を営む鈴木弥右衛門が石代納嘆願書を提出した。この鈴木弥右衛門の行動に勇気づけられ、他の村々に石代納闘争が急速に広がり、淀川村の佐藤八郎兵衛、その他上清水、高坂、下山添など各村の農民が石代納を酒田県に願い出るに至った。しかし、酒田県(第2次)はこれを拒否し、村々の指導者7人を逮捕するとともに、みせしめのために年貢未納を理由に鈴木弥右衛門の居宅を取り壊した。なお居宅の取り壊しについて近隣の農民が執拗に抵抗したことが記録されている。この後、鈴木弥右衛門は大変な苦労の末東京にたどり着き、村々の代表と合流し内務省等へ嘆願したことが判明している。
※この「ワッパ騒動の起こり」の解説は、「ワッパ騒動」の解説の一部です。
「ワッパ騒動の起こり」を含む「ワッパ騒動」の記事については、「ワッパ騒動」の概要を参照ください。
- ワッパ騒動の起こりのページへのリンク