ワッパ騒動の背景 - 当時の庄内の特殊性
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明治維新後、庄内地方は最上川北方が酒田県(第1次)、南方が大泉県(旧荘内藩)と二分された。戊辰戦争以来農民の不満は募り、最上川北方では雑税廃止等を訴え「天狗騒動」が起こった。酒田県はこの天狗騒動の鎮圧に失敗し、結果、大泉県が川北を含んだ形で酒田県(第2次)への大規模な再編に結びついた。酒田県(第2次)の最大の特徴は次の通りである。戊辰戦争で敗れたにも拘わらず、西郷隆盛の口添えもあり県官は全て旧荘内藩士族で占められ、旧荘内藩家老松平親懐・同中老菅実秀の執行体制を作り上げた。そして旧荘内藩よりも広くなった酒田県政の実権を引き続き把握できた。当時の施政側の文章に依ると「恐悦々々、百万石より之愉快ニ御座候」と地位安寧を喜ぶ様が伺える。 この酒田県政においては、明治中央政府の諸改革の多くを無視、若しくは拒否し、以下の独自な政策をとろうとした。 軍事力の保持温存をはかり武力で天狗騒動などを押さえた。 士族集団の帰農策である後田山開墾に多くの農民を動員した。 石代納(こくだいのう)の全面的許可(1872年8月)に対応してとった買請石代納制度(県と特権商人による米穀流通の独占)を図った。 領主階級の地主への転身を狙い、領主的立場を強く打ち出した領有制解体のための地券調入費(1872年)が多額だった。 さらに、荘内藩・第2次酒田県には、天領や他藩には見られない、本年貢の外に入作与内米(いりさくよないまい)・種夫食利米(たねふじりまい)その他多くの雑税があり、合計すると収穫の7 - 8割にものぼる重い負担となっていたこともワッパ騒動の一つのきっかけとなっていった。 また、酒田県政に批判的な士族集団内部からも不満が現れた。酒田県が西郷隆盛の後押しもあり、強硬に推進した開墾事業に従事していた新徴組・新整組の一部士族が脱走し1873年(明治6年)3月に松平・菅(すげ)等の横暴、開墾の強制、藩兵の維持等を司法省に訴えた。さらに、5月に酒田県上層部に批判的な士族金井質直(かないただなお)・本多允釐(ほんだいんり)等が県官の『奸悪十ヶ条』を司法省に訴えた。
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