ワッパ騒動の新たな展開・森藤右衛門の建白運動
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「ワッパ騒動」の記事における「ワッパ騒動の新たな展開・森藤右衛門の建白運動」の解説
逮捕を逃れた指導者・農民達は政府に出訴する方針をとり、金井質直はじめ農民24名が官憲の目を逃れて上京し、司法省に允釐等の釈放と酒田県政の問題を訴えたが、却下され逆に拘束され、酒田県に引き渡された。 森藤右衛門は単独で上京し、1874年(明治7年)10月・11月に左院に建白書を提出して酒田県の改革を訴えた。嘆願に終始しないで、建白・訴訟運動を展開したことにより、ワッパ騒動は新たな段階を迎えることになった。 政府は12月はじめ、三島通庸(みしまみちつね)を酒田県令に任命し、騒動の鎮圧、処理をさせるとともに酒田県政の確立をはかろうとした。1875年(明治8年)1月、森は15ヶ条の建白書を三島に提出したが、拒否されてしまう。酒田に出張中の内務省林茂平にも提出した。しかし、進展がみられないため、2月に森は5名の農民とともに上京し、酒田県を被告として司法省に訴えた。また、4月に元老院が設置されると、5月から6月にかけて、森は3回にわたり元老院に建白活動を行った。その建白書を郵便報知新聞が掲載し注目されたので、三島は大いにあわて大久保に対策を懇願している。森藤右衛門は東京で小野梓など自由民権家たちと交流し、新聞が大きな力を持つことを確認できた。 7月、元老院が森の建白について垂問を開始。この垂問に当たり森と同志の栗原進徳(金井質直の弟、本多允釐の兄)が校主となり、鶴岡に「法律学舎支校」という法律学校を創設し、当時の日本最先端のフランスの法律学者ボアソナードからの流れをくむ清水齋記(しみずさいき)を先生に迎えている。農民の指導者などワッパ騒動の関係者が内外の法律や思想について学習したことは注目すべき活動である。これらの活動とあいまって、10月に元老院権大書記官沼間守一(ぬまもりかず)が鶴岡に派遣されてきた。沼間は8年10月から1か月間、松平・菅をはじめ県官・戸長・村吏・特権商人等を森藤右衛門の建白に沿った形で、厳しく取り調べを行った。これをきっかけにして村役人不正追及運動が再発した。窮地に立った三島は、沼間の取調べは越権不法行為と元老院に抗議し三条や大久保に上申している。 明治政府は当時、大久保等を中心とする太政官側と後藤象二郎等を中心とする元老院側が対立しており、それがワッパ騒動・沼間の取り調べを巡って表面化している。1875年(明治8年)11月に入り元老院の権限が縮小されたが、報告書は正院・司法省に引き渡されていった。
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