ロスバニョス襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:10 UTC 版)
「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事における「ロスバニョス襲撃」の解説
ルソン島では、多くの民間人が日本軍によって拘束されており、そのほとんどが島中に点在する強制収容所に収容されていた。このうち最大のものはマニラから南東に約40マイル(64 km)離れたロスバニョスにあるフィリピン農業大学のキャンパス内に設置されたものだった。ダグラス・マッカーサー元帥は、2月3日に第11空挺師団に対しロスバニョスの抑留者を救出する任務を命じたが、ゲンコウライン(the Genko Line)周辺で戦闘を継続していたため、その時点では任務を遂行できなかった。2月中に達成したのは、主にルソン島南部とロスバニョス周辺で活動するゲリラ集団と連絡を取り、情報を収集することだけだった。スウィング少将と師団参謀は、ゲリラ集団と行動していたヴァンダープール少佐から毎日連絡を受けた。ゲリラと収容所を脱出した数人の民間人から、ヴァンダープール少佐は収容所が高さ約6フィートの有刺鉄線により2重に囲まれていることを確認した。また周辺には複数の見張り塔と塹壕が点在し、それぞれに少なくとも2人の日本兵が配置されていた。抑留者達は毎朝、近くの町から食料と薪を集めるために、武装した日本兵の警護の下、強制収容所を離れている。ヴァンダープール少佐は、抑留者がプロテスタントの宣教師とその家族、ローマカトリックの修道女と司祭、医師やエンジニアなどの専門職の労働者とその家族の3つのグループに分けられていることを掴んだ。医師やエンジニアなどの専門職の労働者とその家族のグループには、数百人の女性と子供が含まれていた。抑留者は一見健康そうだが、多くは少ない配給食糧で衰弱していた。 2月20日、スウィング少将は、ようやくロスバニョス襲撃に必要な部隊を確保することができ、ヴァンダープール少佐と師団の参謀将校は、4段階から成る作戦を立案した。まず、師団の偵察小隊がロスバニョス近くの湖を渡り、ロスバニョス郊外に野営地を設営し、次に空挺中隊の降下が可能な降下地点の野原を確保する。そして降下した空挺中隊が、周辺地域で日本軍の抵抗を排除し、キャンプを設営し、解放した抑留者の避難場所を準備する。最後に54両の水陸両用LVTが2個空挺中隊は湖畔に輸送した後、水陸両用LVTに抑留者を避難させている間に空挺中隊が湖畔を確保するというものだった。同時に機械化歩兵大隊、2個重砲兵大隊、駆逐戦車大隊から成る機動部隊が、幹線道路1号線を南下し、ロスバニョスへ進軍し、日本軍の妨害を排除する。 ゲリラ集団の支援を受けて、2月21日の夜に師団の偵察小隊は、10隻のカヌーに分乗し、湖に漕ぎ出した。困難な航行にも関わらず、翌朝2時にはロスバニョス近くに上陸し、空挺中隊の降下地点を確保し、強制収容所近くのジャングルに潜伏した。午後になって第511パラシュート歩兵連隊第1大隊B中隊が飛行場に移動し、大隊の残りは水陸両用LVT輸送部隊と合流した。2月23日7時にB中隊を乗せた10機のC-47輸送機が離陸し、直後に降下地点上空に到達した。最初の部隊が降下すると、偵察小隊とゲリラ集団が強制収容所の護衛に対し攻撃を開始し、バズーカで強制収容所のコンクリートの壁に穴を開けた。その後、強制収容所に突入し、戦闘となった。空挺中隊は、すぐさま戦闘に加わり、7時30分までに日本軍の護衛は敗北し、抑留者は一斉に確保され、非難の準備を開始した。第511パラシュート歩兵連隊第1大隊の2個中隊が湖畔を確保し、水陸両用LVT輸送部隊は無事に強制収容所に到着した。女性、子供、負傷者が優先的に水陸両用LVT輸送部隊に乗り込むと、何人かの健康な男性は、その近くを歩きながら湖畔に戻った。最初の避難部隊は、10時に強制収容所を出発した。B中隊、偵察小隊、ゲリラ集団は後方の安全確保のために強制収容所に残った。11時30分までに民間人全員の避難が完了し、13時にB中隊、偵察小隊、ゲリラ集団を乗せて、全ての水陸両用LVT輸送部隊が出発した。その頃、幹線道路1号線では、作戦遂行のために配備された機動部隊が日本軍と激しい戦闘を繰り広げ、数人の死傷者を出したが、強制収容所に進軍する日本軍の阻止に成功し、その後アメリカの戦線に退却した。この襲撃は完全に成功し、2,147人の民間人を解放した。
※この「ロスバニョス襲撃」の解説は、「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の解説の一部です。
「ロスバニョス襲撃」を含む「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事については、「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の概要を参照ください。
- ロスバニョス襲撃のページへのリンク