レフェリーを務めたことがあるプロレスラー
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「レフェリー (プロレス)」の記事における「レフェリーを務めたことがあるプロレスラー」の解説
力道山 奉納プロレスのバトルロイヤルを担当。 若松市政 国際プロレス女子部の試合を裁いた。 アントニオ・ロッカ 1975年に行われたアントニオ猪木対ルー・テーズ戦を担当。 ルー・テーズ 現役としての一線を退いた後は、日本でしばしばレフェリーを務めた。 ロード・ブレアース 日本では1981年に、「一つ前のドリー・ファンク・ジュニア対ブルーザー・ブロディの試合がドリーのレフェリー暴行による反則決着となりジョー樋口が担当出来なくなったための臨時レフェリー」として、リック・フレアー対ジャンボ鶴田のNWA世界ヘビー級選手権を裁いたことがある。アメリカではニック・ボックウィンクル対ハルク・ホーガンのAWA世界ヘビー級選手権も裁いている。 ゴードン・ネルソン 引退後、NWAフロリダ地区でレフェリーを担当。 アンドレ・ザ・ジャイアント 1978年、NWAのリッキー・スティムボート対リック・フレアー、WWWFのダスティ・ローデス対スーパースター・ビリー・グラハムなどの試合でスペシャル・レフェリーを担当した。1984年にも、ハワイで行われたシバ・アフィ&ラーズ・アンダーソン対マーク・ルーイン&ケビン・サリバンのタッグマッチを裁いている(試合後はルーイン組と乱闘寸前に)。 テリー・ファンク ジャンボ鶴田対ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級選手権試合(1984年2月23日、蔵前国技館)を担当。 アントニオ猪木 タイガー・ジェット・シン対上田馬之助の遺恨対決を担当。ただし、最終的には両選手に二人がかりで攻撃されていた。 平成維震軍旗揚げ戦の越中詩郎対タイガー・ジェット・シン戦でも担当したが、試合途中でシンにスリーパー・ホールドをかけ、攻撃している。 また、グレート・ムタ対小川直也戦ではムタからレフェリーに指名された。しかし、試合開始直前のボディチェック中に毒霧を受けてしまう。その後はサブレフェリーのタイガー服部が試合を裁いた。 藤波辰爾 第1回ヤングライオン杯の優勝戦を担当。 ザ・グレート・サスケ 格闘技の祭典で4人のタイガーマスクのタッグマッチをブラック・タイガーをモチーフにしたマスクで担当。 藤原喜明 アントニオ猪木対滝沢秀明のエキシビションマッチを担当。 グラン浜田 一時期、コーチを務めていたジャパン女子プロレスでレフェリング。試合後に当時、同団体の営業部員であった大仁田厚と乱闘事件(ギミックと言われる)を起こし試合で対戦してプロレスラー活動復帰への布石とした。 外道(当時はブルドッグ・KT) ブル中野対アジャ・コングの金網デスマッチを担当。アジャ寄りのレフェリングを行い、アジャの金網からのエスケープを成功させ、アジャの勝利に貢献、観客からの反感をかってしまう。その為か、両者の再戦ではレフェリーをしていない。 ストーン・コールド・スティーブ・オースチン レッスルマニア20でのブロック・レスナー対ビル・ゴールドバーグ。両者とも退団が決まっておりファンの不満は高く、それを抑える役割も担っていた。 ショーン・マイケルズ 1999年FMW横浜アリーナ大会と、2005年1月WWE「ニューイヤーズレボリューション」でのエリミネーション・チェンバー・マッチにて。 吉田万里子 全日本女子プロレス時代に幾度かレフェリングをしており、自主興行「息吹」でも試合に出ない場合にはレフェリングをしていた。 松山勘十郎 闘龍門興行の女子プロレスマッチでレフェリングをしていたが、セクハラ三昧がお約束だった。 日向あずみ 愛弟子である勝愛実、林結愛のデビュー戦を担当。 山川竜司 引退後の2013年にWNCラジアントホール大会で特別レフェリーとなる。 松永智充 DDT所属選手だが、アイスリボンではレフェリーとして参加、稀にDDTでも裁くことがあった。 翔太 ガッツワールド所属レスラーだが、世界プロレス協会ではレフェリーとして参加。
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