全日本女子プロレス時代
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1985年6月12日、札幌中島体育センターにおける岩本久美子(後のグリズリー岩本)戦で全日本女子プロレスよりデビュー。入門当時は当時の本名・宇野久子をそのままリングネームにしていた。当時、デビュー時代から連戦連勝で、デビューからの連勝記録を保持していた。同年の新人王決定トーナメントは準優勝、年末の女子プロレス大賞では(最優秀)新人賞となった。 1986年3月、大阪城ホール大会で先輩のコンドル斉藤が保持する全日本ジュニア王座を奪取。同期では最も早い戴冠だった。 1987年、当時保有していたWWWA世界タッグ王座(パートナーは堀田祐美子)の初防衛戦(対 小倉由美&永堀一恵組)で、小倉由美の仕掛けた、ロープ2段目からのツームストン・パイルドライバーを受けた際に首の骨を折る重傷を負い、以後長期欠場を余儀なくされる。骨折した部分は頚椎の周りの部分であり、回復するまでの数か月間はベッドに寝たまま首を動せない状態であったため、かなり辛かったと復帰後のインタビューで語っている。担当医からはレスラーからの引退を勧められたが、本人のプロレスを続けたいという強い意思とファンからの後押しで復帰(ただし、医者からは「復帰したら30歳過ぎには後遺症で体が動かなくなる可能性もある」と忠告されている)。1988年には同期の鈴木美香(みなみ鈴香)と海狼組(マリン・ウルフ)を結成し、リングネームを北斗晶に変更。1989年3月1日に『颱風前夜(The Eve of Fight)』で歌手デビューしている。 1990年代に入ると、2年後輩の豊田真奈美から「北斗、お前は1度も私に勝ってないんだからなあ」と言われて激怒。豊田、山田敏代ら昭和62年入門組との世代対決が開始され、女子プロレスの質は飛躍的に高まり、男性ファンが大挙して会場に押し寄せるようになる。1992年にヒールに転身し、三田英津子と『猛武闘賊(ラス・カチョーラス・オリエンタレス)』を結成(のち下田美馬が参加)した。 1993年から1997年にかけての団体対抗戦時代に北斗は全女を背負って闘い、LLPWの神取忍と血みどろの抗争を繰り広げてデンジャラスクイーンと呼ばれるようになる。後に神取との試合の契機を聞かれると、「プロレス観が決定的に違った。(客を楽しませる事やプロレスを楽しむ事に拘る自分に対して)格闘技として単純に強くなる事だけを考えてた神取が許せなかったんだと思う」と述べている。試合後の毒舌マイクパフォーマンスも人気を呼んだ。また、国内の活動と並行して覆面レスラー「レイナ・フブキ」のリングネームでメキシコのEMLLでも活躍したが、長期欠場に追い込まれた首などの度重なる負傷が響き、悲願だったWWWA世界シングル王座には手が届かなかった。
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