ルイ・ド・ブロイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 00:15 UTC 版)
ルイ・ド・ブロイ Louis Victor de Broglie |
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生誕 | ブロイ公子ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン Louis-Victor Pierre Raymond, prince de Broglie 1892年8月15日 ![]() |
死没 | 1987年3月19日(94歳没)![]() |
居住 | ![]() |
国籍 | ![]() |
研究分野 | 数学、物理学、理論物理学、量子力学 |
研究機関 | ソルボンヌ大学 アンリ・ポアンカレ研究所 |
出身校 | ソルボンヌ大学 |
博士論文 | Recherches sur la théorie des quanta ("Research on Quantum Theory") (1924) |
博士課程 指導教員 |
ポール・ランジュバン |
博士課程 指導学生 |
セシル・ドウィット=モレット Bernard d'Espagnat Jean-Pierre Vigier Alexandru Proca |
主な業績 | ド・ブロイ波の提唱 ド・ブロイの方程式 電子の波動性の発見 |
影響を 受けた人物 |
モーリス・ド・ブロイ アルベルト・アインシュタイン アーサー・コンプトン |
影響を 与えた人物 |
エルヴィン・シュレーディンガー デヴィッド・ボームなど |
主な受賞歴 | ノーベル物理学賞 (1929)[1] マックス・プランク・メダル (1938)[2] |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
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ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランスの理論物理学者。
彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。
生涯
ルイ・ド・ブロイは、ルイ14世によって授爵された名門貴族ブロイ家の直系子孫にあたり、フランスの首相を二度務めた第4代当主アルベール・ド・ブロイの孫として、1892年にフランスのディエップに生まれた。父は当時公子であり、後の第5代当主ヴィクトル (Victor) 。祖父の母方祖母にスタール夫人がいる。
はじめは祖父の導きからソルボンヌ大学で歴史学を専攻したが、やがて17歳年上の兄で軍人・物理学者でもあった第6代当主モーリス・ド・ブロイの影響を受け、物理学に強い興味を持つようになる。
第一次世界大戦時には電波技術者として従軍し、エッフェル塔に配属されていた。戦後は兄とともに、自宅に設けた実験室で研究を行った。さらにソルボンヌ大学で物理学を修め、1924年に物理学の博士号を得た。
ド・ブロイは博士論文において、後にド・ブロイ波(物質波)と呼ばれることになる仮説を提起している。これはウィリアム・ローワン・ハミルトン以来の、光学と数学間のアナロジーを継ぐものであった。すでにアルベルト・アインシュタインは1905年の論文において、光電効果について電磁波を粒子として解釈することで説明していた。また博士論文提出前年の1923年にはアーサー・コンプトンが電子によるX線の散乱においてコンプトン効果を発見し、光量子説は有力な証拠を得た。ド・ブロイはこれらに影響を受け、逆に粒子もまた波動のように振舞えるのではないかと自身の博士論文で提案したのである。
すなわち、この仮説は光子だけではなく全ての物質が波動性を持つとするもので[3][4]、波長λと運動量pが次の式で関係付けられた。
外部リンク
- 日本における「物質波理論」の受容小島智恵子、総合文化研究第27巻第1号(2021. 6)
フランスの爵位 | ||
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先代 モーリス・ド・ブロイ |
ブロイ公爵 第6代:1960 - 1987 |
次代 ヴィクトール=フランソワ (fr:Victor-François) |
学職 | ||
先代 エミール・ピカール |
アカデミー・フランセーズ席次1 第16代:1944 - 1987 |
次代 ミシェル・ドブレ |
固有名詞の分類
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