ルイトポルト朝時代
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「バイエルン公国」の記事における「ルイトポルト朝時代」の解説
カロリング帝国下においてバイエルンは王国の地位を獲得してヴェルダン条約では東フランク王国に組み込まれることが明白となり、カロリング朝の分家によって派遣される代理人によって支配された。バイエルンでは徐々に上流階級、特にルイトポルト家が台頭していった。その影響力はアルヌルフ帝(その母親はルイトポルド家出身の可能性あり)の統治下で一段と増した。893年にアルヌルフはケルンテンと上パンノニア(現オーストリア及び西ハンガリー)をルイトポルト伯(ドイツ語版)に与えた。895年にルイトポルトはドナウ川沿いの低地、ノルガウ(ドイツ語版)(現オーバープファルツ)およびレーゲンスブルクも拝領している。このようにしてフランク王国内部に“バイエルン辺境伯領”と呼ばれる新たなる国家の基盤が形成されたのである。かくしてバイエルン及びその他辺境伯領の統治者となったルイトポルドはスラヴ人やマジャール人といった隣国の部族と常に戦い、907年にプレスブルクの戦い(ドイツ語版)(現ブラチスラヴァ)で戦死した。それ以上に重要なことはバイエルンの地(東方辺境伯領(ドイツ語版))がマジャール人の襲撃にさらされたということである。 ルイトポルトの後継者であるアルヌルフ、エーバーハルト及びベルトルトのもとでバイエルンは公領として再編され、ゲルマン人の主要ないしその他の部族によって形成される「部族大公領(英語版)」と呼ばれる帝国の五大公領の一つとなった。国の防衛体制を築くための資金が不足していると感じたアルヌルフはカトリック教会からの土地・財産没収に頼り、これにより“悪党”という綽名をつけられた。アルヌルフはバイエルンの復興を果たしてマジャール人と和平を締結した。これによってマジャール人は自身のドイツ襲撃に際して抵抗を受けることなくバイエルンを通り抜けたが、同公領は荒らされずにすんだ。アルヌルフは自領にて独自に伯や司教を任命したり独自の外交政策をとること(王との相違は常にマジャール人の襲撃に対する闘争であり、自領を帝国にとっての関心の的であるマジャール人による損害から守るためにアルヌルフは彼らと和平を結んだ)で事実上王に不服従の姿勢を取った。 しかしながらドイツで有力な国王たるハインリヒ1世捕鳥王・オットー1世大帝親子を中心とするリウドルフィング朝による王権が誕生したことによりバイエルンの自主性は削がれて徐々に中央権力に従属するようになった。921年にハインリヒ1世の軍隊はバイエルンに侵攻してアルヌルフを服属せしめた。アルヌルフは己の公の権利を確認することでバイエルンが王の宗主権下におかれることを認めたものの、十分な自主性を保持することができた。それに加えてハインリヒ1世はアルヌルフにバイエルン公国内の教会を指名する権利を残すことを余儀なくされた。 937年にアルヌルフが死ぬとその長男であるエーバーハルトが継承してオットー1世に忠実に仕えることを拒絶した。これに対するオットー1世の返答は938年のエーバーハルトの領域への侵攻である。オットー1世による2度の遠征によって公国は荒廃してエーバーハルトは公位から引き摺り下ろされた。代わってバイエルンの国境地帯の辺境伯(ケルンテン)を統治していた叔父のベルトルトが統治することとなった。 前任者とは異なりベルトルトは自領において教会や伯を指名する権利を受け賜わらずに事実上完全に王に従属したことを明らかにした。多かれ少なかれベルトルトは自身による統治期間中はオットー1世に忠実であった。ベルトルトは既に半世紀にも渡ってドイツの地を襲撃して略奪し続けていたマジャール人に対する戦闘で陣頭指揮を執った。943年にバイエルン軍はマジャール軍をヴェルスにて撃破することで暫くの間は公国の東部国境線の平穏を確保することができた。 947年にベルトルトが死ぬと息子のハインリヒ3世はオットー1世によって継承権から外された。バイエルンはオットー1世の弟であるハインリヒ1世の手に渡った。バイエルンの支配権がリウドルフィング家に移行したことはルイトポルド家との間で長きに渡る闘争を引き起こすこととなった。恐らく、ハインリヒはバイエルンを喪失したであろうがそれでもケルンテンにおける己の領地の一部を保持し、帝国内における自身の地位を保持することが許されたことであろう。
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