ユングとの出会いと訣別
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「ジークムント・フロイト」の記事における「ユングとの出会いと訣別」の解説
1890年代後半から1910年近くまでフロイトは孤独に苦しんでいた[要出典]。1900年に出版された『夢判断』は600部印刷されたのだが、完売には8年ほどかかり、1905年の『性に関する三つの論文』は各方面から悪評を浴びせられるなど、ウィーンでの理解者は皆無に等しかった。このような孤立の中で支えとなったのは、身近に集まった弟子や、フェレンツィ、ユング、ビンスワンガー、その他ロンドンやアメリカなどの国際的な支持であった。その後ウィーンでもカハーネやライトレルが興味を示し始め、シュテーケルとアドラーを招待した1902年の秋に「心理学水曜会」という集会が開かれるようになる。しだいに国内外から参加者が増えて、1908年には「ウィーン精神分析協会」と名乗るようになった。1907年からこの集会にスイスから参加していたカール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ、ユングも初めはフロイトを深く敬愛した。 1908年にスタンリー・ホールの招待を受け、翌1909年にユング、フェレンツィと共にクラーク大学創立20周年式典に出席、講演後に大学長から博士号を授与された。滞在中に米国の心理学者ウィリアム・ジェームズと出会う。2人が道を歩いていた時にジェームズは狭心症発作を起こした。彼は鞄をフロイトに預け、後で追いつくから先に行っていてくれと言った。この彼の態度にフロイトは感銘を受け、自分に死が近づいて来ても彼のように恐れず毅然とした態度をとりたいと願った。ハーバード大学に行った際にはJ.パットナムという終生の友を得た。その後ウィーンから来た3人は観光でナイアガラの滝を見物、9月21日にニューヨークを発ち、10月2日に帰国した。 しかしながらフロイトのアメリカに対する偏見は変わることは無かった。帰国してから数年間、自分の体調不良はアメリカに行ったせいだ、筆跡まで悪くなったと語っていた。この偏見の理由は、アメリカ的な自由気ままの雰囲気がヨーロッパの学問の尊厳を侵すように感じられたこと、英語が不自由であったことが主な原因であった。他にも食事が合わなかったことや虫垂炎の再発と頻尿に悩まされていたのもあったが、フロイトを尊敬する国になり、後に多数の弟子たちの安住の地となった。 1908年にもなると精神分析運動に対しての反発は頂点に達しつつあった。国内外において精神分析を支持する者は学会での討論を禁じられ、さらには職を失う者も出てきた。フロイト自身はごく控え目にして耐えるという態度に終始したが、不満は溜まっていた[要出典]。しかし外側からの反発以上に苦しめたのは内側からの離反であった。1910年「国際精神分析学会」創立時、フロイトはユングを初代会長に就任させ、個人的にもしばらく蜜月状態ともいうべき時期が続いたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになる。1913年のミュンヘンにおける第4回の国際精神分析大会で以前からの不和が決定的となり決裂してしまう。翌1914年にユングは国際精神分析学会を脱退した。 ユング以外にも1911年にアドラー、翌1912年にはシュテーケルという当初の「心理学水曜会」からの協力者が離れていってしまった。フロイトは『症例シュレーバー』でアドラーに、『精神分析運動の歴史について』でユングに反論と攻撃を加えた。
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